白上 明恵上人(しらかみみょうえしょうにん) 笠塔婆(和歌山県有田郡湯浅町栖原)
明恵上人が修行した紀州 有田の地 八ヶ所に、弟子の喜海が嘉禎二年(1236)に木造卒塔婆をたてた。これが古くなり、康永三年(1344)弁迂が勧進し、石造卒塔婆に建替えた。
西白上山(160m)頂上にあり、明恵上人が建久六年(1195)23歳の時、草庵を建て厳しい修行をした処。
西白上(にししらかみ)笠塔婆(国史跡、南北朝時代前期 康永三年 1344年、砂岩、高さ 150Cm)
塔身・笠・宝珠を一石から作る。現在の笠塔婆は、南北朝時代のもの | 塔身正面上部、大きく文殊の種子「マン」、下に文殊師利菩薩と刻む |
西白上笠塔婆の宝珠と笠
正面の銘文 | 背面の銘文 |
笠塔婆の銘文
塔身正面の銘文:「建久之此遁 本山高尾来 草庵之処」、「嘉禎二年(1236)丙申十一月十九日造立之 喜海謹記」
[ 建久の頃、京 高尾(高雄)をのがれ草庵を結んだ処。嘉禎二年十一月十九日造立 喜海記]
背面の銘文:「嘉禎年中所立木卒塔婆朽損之間 勧進一族 以石造立之 依此結縁 各預上人引導
可令成就二世願望者也 康永三秊(1344)甲申九月十九日 勧進比丘弁迂」
[ 明恵上人の弟子の喜海が嘉禎年中に立てた木造卒塔婆が古くなり、康永三年(1344) 弁迂が勧進し、石造卒塔婆に建替えた。]
右面の刻銘:「安倍氏六之女」 | 左面の刻銘:「願主沙弥□□」 |
白上 明恵上人(しらかみみょうえしょうにん) 笠塔婆(和歌山県有田郡湯浅町栖原)
明恵上人は、西白上が騒がしいため東白上に移り、覚悟を新たにし右の耳を自ら切った。その翌日眼前に文殊菩薩が現れ霊感を得たという。
東白上(ひがししらかみ)笠塔婆(国史跡、南北朝時代前期 康永三年 1344年、砂岩、高さ 150Cm)
西白上笠塔婆と同形式で、塔身上部に大きく梵字「ウーン」を刻む | 梵字の下には「金剛蔵菩薩」、その下に銘文を刻む |
塔身正面下部の銘文:「建久之比蟄居修練之間 文殊浮空中現形之処」、「嘉禎二年(1236)丙申十一月十九日造立之 喜海謹記」
[ 建久の頃、蟄居修練の間に文殊菩薩が空中に形を現じた処。嘉禎二年十一月十九日造立 喜海記]
東白上笠塔婆の宝珠と笠
背面の銘文:(西白上笠塔婆と同文) | 側面の銘文:「願主 藤原宗貞」 |
明恵上人の母方の湯浅氏(藤原姓)一族が願主になっている
背面の銘文:「嘉禎年中所立木卒塔婆朽損之間 勧進一族 以石造立之 依此結縁 各預上人引導
可令成就二世願望者也 康永三秊(1344)甲申九月十九日 勧進比丘弁迂」
[ 明恵上人の弟子の喜海が嘉禎年中に立てた木造卒塔婆が古くなり、康永三年(1344)弁迂が勧進し、石造卒塔婆に建替えた。]
指定 | 名 称 | 制 作 年 | 所 在 地 |
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 吉原笠塔婆 | 康永三年(1344年) | 和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字中越179 | |
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 西白上笠塔婆 | 康永三年(1344年) | 和歌山県有田郡湯浅町栖原 | |
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 東白上笠塔婆 | 康永三年(1344年) | 和歌山県有田郡湯浅町栖原 | |
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 筏立笠塔婆 | 享和二年(1802年) | 和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字西原1103 | |
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 糸野笠塔婆 | 康永三年(1344年) | 和歌山県有田郡有田川町糸野字上人谷650-1 | |
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 星尾笠塔婆 | 康永三年(1344年) | 和歌山県有田市星尾 | |
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 神谷後峰笠塔婆 | 康永三年(1344年) | 和歌山県有田郡有田川町船坂字聖人793-1 | |
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 内崎山笠塔婆 | 昭和八年(1933年) | 和歌山県有田郡有田川町井口22-2 |
明恵上人 紀州八所遺跡 笠塔婆一覧
東白上笠塔婆付近からみた湯浅湾
西白上笠塔婆の近くから、湯浅湾に浮かぶ鷹島(たかしま)と苅藻(かるも)島
明恵上人は、度々鷹島や苅藻島に渡り、天竺(インド)に向い遥拝した。鷹島(たかしま)では、小石を拾い生涯大切にしたという
我さりて 後にしのばむ 人なくば とびてかれね たかしまの石 (明恵上人 作)
*JR紀勢本線「湯浅駅」下車、徒歩。施無畏寺から約100m登ると西白上山(160m)の頂上に西白上笠塔婆がある。東白上笠塔婆は、西白上笠塔婆より 約 400mはなれた場所にある。
(撮影:平成21年1月27日)