明恵上人(みょうえしょうにん)紀州遺跡 笠塔婆

  明恵上人が誕生・修行した紀州 有田の地 八ヶ所に、弟子の喜海が嘉禎二年(1236)に木造卒塔婆をたてた。これが古くなり、康永三年(1344)弁迂が勧進し、石造卒塔婆に建替えた。

 筏立(いかだち)遺跡 卒都婆(和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字西原1103)

   明恵上人が建久九年(1198)から三年間修行を重ねた所で、ここで「唯心観行式」や「随意別願文」などを著した。笠塔婆は破損の為、享和二年(1802)に再建。

明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 筏立(いかだち)卒都婆 (国史跡、江戸時代後期 享和二年 1802年再建、砂岩)

江戸時代に再建された笠塔婆で、塔身正面に明恵上人の高弟 喜海が嘉禎二年に建立した木造卒塔婆の文面を刻む。

明恵上人が建久九年(1198) 二十六歳のとき、伯父の地頭職 湯浅宗光の招きにより白上峰から当所に移り、三年間 華厳経の修行をした。

軒口薄く、幅広で背が低い。頂部の宝珠は、先端が尖り江戸時代風。

笠塔婆正面(南面)、上方の本尊種子「シリー」

種子「シリー」は、吉祥天や最勝仏頂の仏尊。

正面上方、種子「シリー」・「功徳林菩薩」 正面(南面)下方の刻銘

『華厳経』では「法慧菩薩」、「功徳林菩薩」、「金剛幢菩薩」、「金剛蔵菩薩」を四菩薩とする。

塔身正面、上方に種子「シリー」、下に「功徳林菩薩」、下方に「建久末比製、華厳唯心観、行式随意、御託宜処」と刻む。

[ 建久九年(末年)華厳経を修行し、この地で著した「唯心観行式」並びに「随意別願文」の御託宣を受けた処。]

建久九年(1198)十月八日 唯心観を修し、随意別願文を誦したところ、その夜の夢に天地が感動して大雷のように十方に響きわたったと伝える。(現地説明板)

明恵上人の高弟 喜海が嘉禎二年(1236)に建立した木造卒塔婆の文面がそのまま刻まれている。

塔身西面、下方の刻銘

刻銘:「嘉禎二年(1236)、丙申、十一月十九日造立之、比丘喜海謹記」

[ 嘉禎二年(1236)十一月十九日造立 喜海記]

笠塔婆、東面及び背面。背面は荒叩きのまま。 東面下方の刻銘

東面、下方の刻銘:「嘉禎年中前立之碑古損之間造立之、享和二秊(1802)壬戌、九月十九日

以前に立っていた嘉禎年中の碑は古損し、享和二年(1802)九月十九日に建替えた。

南北朝時代前期 康永三年(1344) 弁迂により建替えられた石造卒塔婆も破損していたと思われる。

笠塔婆、基礎

方形で、側面は無地。

指定 名       称 制  作  年 所    在    地
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 吉原笠塔婆     康永三年(1344年) 和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字中越179
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 西白上笠塔婆  康永三年(1344年) 和歌山県有田郡湯浅町栖原
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 東白上笠塔婆 康永三年(1344年) 和歌山県有田郡湯浅町栖原
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 筏立笠塔婆 享和二年(1802年) 和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字西原1103
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 糸野笠塔婆     康永三年(1344年) 和歌山県有田郡有田川町糸野字上人谷650-1
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 星尾笠塔婆     康永三年(1344年) 和歌山県有田市星尾
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 神谷後峰笠塔婆   康永三年(1344年) 和歌山県有田郡有田川町船坂字聖人793-1
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 内崎山笠塔婆  昭和八年(1933年) 和歌山県有田郡有田川町井口22-2

明恵上人 紀州八所遺跡 笠塔婆一覧

 筏立(いかだち)宝篋印塔                               石仏と石塔-目次!

明恵上人 紀州 筏立(いかだち)遺跡 (華厳経 修行の地)

遺跡の西側(向って左)の平地は御厨平と呼ばれ、華厳院建久寺があったと伝えられている。

明恵上人 略年表

 笠塔婆(かさとうば)

*JR紀勢線「藤並駅」下車、東南東方向へ 約8.8Km。吉原遺跡から南へ 約1.5Km。藤並駅の観光案内所で、無料レンタサイクルを借りるのが便利。

(撮影:平成25年12月24日)