高野山 名号板碑(みょうごういたび)

 高野山 名号板碑(みょうごういたび)(和歌山県伊都郡高野町高野山)

高野山 名号板碑(南北朝時代前期 康永三年 1344年、結晶片岩、高さ 180Cm 幅 85Cm)

石材は阿波徳島の結晶片岩、頭部部山形で二段の切込みがある。中央に大きく蓮座上の六字名号を刻み、両側に銘文を刻む

板碑 頭部

頭部山形、下に二段の切込、身部は一重線の輪郭を巻く

向かって左側の刻銘 向かって右側の刻銘

右刻銘:「為自身順次往生、幷亡妻亡息追善也、奉謝二親三十三廻」

左刻銘:「恩徳阿州国府住人、康永参秊(1344)、甲申、暮春中旬、沙弥覚佛、敬白

阿波国府の住人 覚仏が、亡き妻と息子の供養のため、地元 阿波でこの板碑をつくり奥の院に立てた

板碑下部 蓮華座

名号板碑は高野山奥の院「越前徳川氏石廟」の向かって左側、少し奥に立っている

  高野山 高麗陣敵味方戦死者供養碑

県指定文化財、安土桃山時代 慶長四年 1599年(赤十字精神を表した供養碑)

塔身正面は輪郭を巻き、上部に五点具足の胎蔵界大日如来の種子「アーンク」を刻み、その下に高麗戦争(秀吉による第二次征韓)で戦死した敵味方

の菩提を弔うため慶長四年(1599年)に薩摩藩主 島津義弘・忠恒の父子が建てたことを刻む。笠は軒反がなく上下端の線が一直線で硬い感じがする

  融通念仏宗中祖 法明上人 墓

法明上人墓 五輪塔(国史跡)

法明上人は鎌倉時代後期の元亨年間(1321~1324)に衰えていた融通念仏宗の再興に務めた。良忍が開祖で大阪市の大念仏寺が総本山

  崇源夫人(すうげんふじん)五輪石塔

崇源(すうげん)夫人五輪石塔(県史跡、江戸時代初期 寛永四年 1627年、高さ 660Cm)

崇源夫人は徳川二代将軍 秀忠の妻で、淀君の妹 江(ごう)、寛永三年(1626)に没した。この五輪塔は高野山の中でいちばん大きく(総高 660Cm)「一番石」として知られる

  武田信玄・勝頼 墓 五輪塔

武田信玄・勝頼 墓 五輪塔(県史跡)

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 上杉謙信 廟

上杉謙信 廟

 笠塔婆(かさとうば)                               板碑(いたび)

五輪塔紀年順  高野山 5・12町石五輪卒塔婆(奥院側)(江戸中期)  五輪塔-紀年順-目次

*南海電鉄「極楽橋駅」でケーブルに乗り換え、終点「高野山」下車、南海バス乗車「奥の院前バス停」下車 徒歩

(撮影:平成20年5月6日、平成21年6月2日)