多賀城碑(たがじょうひ)

 多賀城碑(たがじょうひ)(宮城県多賀城市市川字田屋場54)

  多胡碑(群馬県)、那須国造碑(栃木県)とともに日本三古碑と呼ばれる。天平宝字六年(762年)多賀城修造記念碑として造立された。

多賀城碑(重要文化財、奈良時代後期 天平宝字六年 762年、花崗質砂岩、高さ 196Cm 最大幅 96Cm 厚さ 70Cm)

碑は、明治以来偽作説があったが、昭和38年の発掘調査で8世紀半ばに大規模な修復工事あったことが確認され、又、その他の新事実から真作とされている。

南門があった近辺、覆堂の中、西向きに立っている。硬い砂岩の表面を加工・研磨し十一行の碑文を刻む。

多賀城碑は江戸時代初期に発見され、その当初から陸奥の歌枕である「壺碑(つぼのいしぶみ)」と結びつき広く知られていた。

陸奥(むつのく)の おくゆかしくぞ おもほゆる 壺の碑(いしぶみ) そとの浜風 (西行「山家集」)

元禄二年(1689)五月八日、松尾芭蕉も旅の途次にこの碑を訪れ、その内容と感動を「奥の細道」に記している。

多賀城碑 碑文(現地説明板、部分)

額部中央に「西」と大きく刻み、一重線の輪郭内に十一行百四十字の碑文が刻まれている。

碑の内容は、最初の五行に多賀城の位置、次の五行に多賀城の創建と修造に

関してその年紀と創建者名・修造者名、最後の行に碑の造立年月日を刻んでいる。

多賀城碑 額部

大きく「西」の文字、線刻の輪郭内 向って右上に「多賀城」の文字、その下五行に多賀城の位置を記す。

多賀城碑、最初の五行 (多賀城の位置)

刻銘:「去京一千五百里、去蝦夷国界一百廿里、去常陸国界四百十二里、去下野国界二百七十四里、去靺鞨国界三千里」

多賀城は、平城京(奈良)を去ること千五百里、蝦夷国(えみしのくに)の境を去ること百二十里、常陸国(現、茨城県)の境を去ること四百十二里、

下野国(現、栃木県)の境を去ること二百七十四里、靺鞨国(まつかつのくに)の境を去ること三千里の距離に位置する。(当時の一里:約535m)。

多賀城碑、次の六行 (碑の創建・修造年とその造立者名及び碑の造立年月日)

刻銘:「此城神亀元年(724)歳次甲子按察使兼鎮守将、軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置、

也天平宝字六年(762)歳次壬寅参議東海東山、節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守、

将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也、天平宝字六年(762)十二月一日」

多賀城は、神亀元年(724)に按察使(あぜち)兼(けん)鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)従四位上(じゅうしのいのじょう)勲四等 大野朝臣東人

(おおののあそんあずまひと)が置いた。天平宝字六年(762)参議(さんぎ)東海東山節度使(とうかいとうさんせつとし)従四位上(じゅうし

いのじょう)仁部省卿(じんぶしょうきょう)兼(けん)按察使(あぜち)鎮守将軍 藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらのえみのあそんあさかり)が天平

宝字(てんぴょうほうじ)六年(762)十二月一日に修造(修復)した。口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口

刻銘:「天平宝字六年(762) 刻銘:「多賀城」

多賀城碑は、群馬県高崎市の多胡碑(たごひ)、栃木県大田原市の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)とともに日本三古碑と呼ばれている。

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多賀城碑 覆堂

木造宝形造で桟瓦葺、格子がはめられ、内に碑が納められている。

 石  碑(せきひ)

*東北本線「国府多賀城駅」下車、北西方向へ徒歩 約10分。

(撮影:平成25年10月11日)