多福院(たふくいん)山門脇 後列 石塔婆群 (宮城県石巻市吉野町1-4-9)
十三回忌供養の為、造立された石塔婆で、その本尊 大日種子を刻む。十三仏信仰が広がる初期 南北朝時代中期 貞治四年(1365)の在銘。
多福院 山門脇 金剛界大日種子石塔婆 (市指定文化財、南北朝時代中期 貞治四年 1365年、粘板岩、高さ 180Cm 幅 40Cm) |
山門脇石塔婆群の後列、向って右端に立つ一基。
頭部は、アーチ風。身部は、十三回忌の造立趣旨と本尊 金剛界大日種子「バン」を刻む。南北朝時代 貞治四年(1365)の在銘。 |
十三仏は、死者の追善供養のために①.初七日(不動)、②.二七日(釈迦)、③.三七日(文殊)、④.四七日(普賢)、⑤.五七日(地蔵)、⑥..六七日(弥勒)、⑦.七七日(薬師)、
⑧.百ヶ日(観音)、⑨.一周忌(勢至)、⑩.三回忌(阿弥陀)、⑪.七回忌(阿閦)、⑫.十三回忌(大日)、⑬.三十三回忌(虚空蔵)の十三仏事にわりあてられた仏・菩薩をいう。・・
最初の十仏は、閻魔王など十王の本地仏を、初七日(不動)から三回忌(阿弥陀)までに当て、この十仏に七回忌 阿閦、十三回忌 大日、三十三回忌 虚空蔵を加えたのが十三仏。
最後の三仏が⑪.七回忌(阿閦)、⑫.十三回忌(大日)、⑬.三十三回忌(虚空蔵)に定型化するのは室町時代前期 頃になる。
本石塔婆は造立趣旨に十三回忌と記し、その本尊 大日種子「バン」を刻む南北朝時代中期 貞治四年(1365)の石塔婆で、忌日供養碑としては早期のものになる。
碑面上方、主尊種子「バン」
金剛界大日如来の種子「バン」を月輪の中に刻む。
下方の刻銘は、中央に「貞治四年(1365)三月日、孝子等、敬白」の紀年銘、
その両側に各一行「右志者相当慈父慈蓮禅門一十三廻所修也、早出生死若成至無為浄刹乃至平等利益也」と刻んでいる。
[ 亡き父「慈蓮禅門」十三回忌の追善供養として、南北朝時代 貞治四年(1365)三月 子供等が本石塔婆を造立した。]
刻銘:「貞治四年(1365)三月」 | 刻銘:「慈父慈蓮禅門一十三廻」 |
多福院(たふくいん)山門脇後列 石塔婆群 (宮城県石巻市吉野町1-4-9)
下部の修理個所が剥離、上部の上・下が破損する。もとは二尊種子を刻む結衆石塔婆で、室町時代前期 応永九年(1402)の紀年銘がある。
二尊種子石塔婆 (市指定文化財、室町時代前期 応永四年 1397年、粘板岩、元の高さ 223.5Cm 幅 47Cm)、二片に破損 | ||
下片 | 上片 |
もとの修理個所が、震災の為(?)剥離、上片の上・下が新たに破損する。もとは上方に二尊種子、その下に四十二人の交名、下方に願文と紀年銘を刻んでいた。
碑面上方、種子「バーンク」(金剛界大日)
金剛界大日如来の種子「バーンク(五点具足)」を薬研彫する。もとは、大日の上に地蔵種子「カ」が月輪内に刻まれていた。
破損前、二尊種子(部分) (石巻市発行、「石巻の歴史第八巻」より) |
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交名の部分(上片) |
交名の部分は、六列七段の罫線を引き、四十二人の僧名と思われる名が刻まれている。
石塔婆下方、刻銘(下片)
刻銘は、中央に「應永四年(1397)、丁丑、十月廿四日一結衆、敬白」の紀年銘、その両側に各二行 造立趣旨を刻む。
多福院 二尊種子石塔婆 (市指定文化財、室町時代前期 応永四年 1397年、粘板岩、もとの高さ 223.5Cm 幅 47Cm)
多福院(たふくいん)山門脇 石塔婆群 後列部分 (市指定文化財、南北朝時代~室町時代、粘板岩)
向って右端に大日種子石塔婆、その横に二尊種子石塔婆の下側が、そのうしろに上側が立つ。
*JR石巻線・仙石線 「石巻駅」下車、南東方向へ徒歩 約1.6Km。
(撮影:平成26年4月10日)