多福院阿弥陀種子石塔婆(吉野先帝菩提碑)

 多福院(たふくいん)吉野先帝菩提碑 (宮城県石巻市吉野町1-4-9)

   松平定信の「集古十種」に集録されている碑で、吉野先帝(後醍醐天皇)の菩提を弔うために造立された。天皇の供養碑としては全国唯一という。

吉野先帝(後醍醐天皇)菩提碑 (市指定文化財、南北朝時代前期 延元四年 1339年、粘板岩、高さ 169Cm 幅 87.5Cm)

碑の上部は、阿弥陀種子「キリーク」の下方を残して欠損する。種子の下に「奉為、吉野先帝御菩提」と南朝年号「延元四年(1339」の紀年銘を刻む。

尚、多福院の石塔婆で南朝年号を刻む碑は、延元三年(1338)から興国四年(1343)までの短い期間に六基あり、いずれも南北朝時代早い時期

のもの。また、北朝年号の石塔婆は貞和五年(1349)が初出で、それ以後南朝年号はなく、南北朝時代最終年である明徳三年(1392)まで18基ある。

銘:奉為、吉野先帝御菩提、延元二二、己卯霜月廿四日、敬白 刻銘:吉野先帝御菩提

碑面の刻銘は、中央に「奉為」、向って右に「吉野先帝御菩提」、向って右に「延元二二(四)(1339)霜月(11月)廿四日、敬白」と刻む。

尚、後醍醐天皇は、「延元四年(1339)八月十六日」に崩御、本供養碑は「延元四年十一月二十四日に造立されている。

(石巻市発行、「石巻の歴史第八巻」によれば、「紀年銘」と「吉野先帝御菩提」の字体が異なる様に思われると感想が記されている。)

多福院 大日堂脇阿弥陀種子石塔婆

 多福院(たふくいん)大日堂脇石塔婆群 (宮城県石巻市吉野町1-4-9)

   多福院には、紀年銘のある石塔婆が約80基あるが、その中で三番目に古い鎌倉時代中期 弘安六年(1283)の在銘塔。

多福院 大日堂脇 阿弥陀種子石塔婆 (市指定文化財、鎌倉時代中期 弘安六年 1283年、粘板岩、高さ 173Cm 幅 41.5Cm)

頭部は山形に近く成形。身部は、上方 蓮座上月輪内に阿弥陀種子「キリーク」、下方は三行で願文及び紀年銘を刻む。

碑面上方、「阿弥陀種子」

蓮座上月輪内に大きく阿弥陀如来の種子「キリーク」を薬研彫する。

花瓶(一対二基)

蓮座の下に一対の花瓶が刻まれている。風化・摩耗が進んでおり、肉眼ではほとんど確認出来ない。

石塔婆 下部、刻銘 (全文)

石塔婆 下部の刻銘は、中央に「弘安六年(1283)、大蔵、癸未、四月九日、主、敬白の紀年銘、

その両側に各一行「右志者為過去聖霊往生、極楽乃至法界平等利益故也」と刻んでいる。

碑は、鎌倉時代中期 弘安六年(1283)四月九日に、追善供養の為、造立されている。

多福院 大日堂脇図像石塔婆

 多福院(たふくいん)大日堂脇石塔婆群 (宮城県石巻市吉野町1-4-9)

   多福院には、紀年銘のある石塔婆が約80基あるが、その中で一番古い鎌倉時代中期 建治元年(1275)の在銘塔。

多福院 大日堂脇 図像石塔婆 (市指定文化財、鎌倉時代中期 建治元年 1275年、粘板岩、高さ 146Cm 幅 44.5Cm)

全体に摩耗・風化が進み肉眼では図像・刻銘ともよくわからない。身部上方に坐像の仏菩薩、下方に三行で願文及び紀年銘を刻むという。

下部の刻銘は、中央に「建治元年(1275)、大才、十一月八日、孝子、敬白その両側に「右志者為過去、幽霊往生極楽也」と刻む。

※ 多福院と慈恩院の石塔婆(当HP,掲載分) 時代別一覧

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多福院(たふくいん)大日堂脇 石塔婆群

覆屋の中、柵を設けて置かれている。

 板碑(いたび)

*JR石巻線・仙石線 「石巻駅」下車、南東方向へ徒歩 約1.6Km。

(撮影:平成26年4月10日)