専称廃寺跡(せんしょうはいじあと)(菅原神社)(宮城県石巻市湊字鹿妻山)
名号の下に「文鬼元年」という私年号を刻む石塔婆で、同音異字(文亀)の年号かどうかは不明。
専称廃寺跡 名号石塔婆 (南北朝~室町時代 文鬼元年、粘板岩、高さ 94Cm 幅 21Cm 厚さ 8Cm) |
石塔婆は、中央に大きく「南無阿弥陀仏」の六字名号、その下に「文鬼元年七月廿九日」の私年号、下方の左右に「臨阿弥陀仏、孝子敬白」と刻む。
石塔婆、下方の刻銘
名号の下に「文鬼元年七月廿九日」、向って右側に「臨阿弥陀佛」、左側に「孝子敬白」と刻む。
全国的には、同音異字を刻む例がレアケースとしてあるという。であれば、文鬼元年は文亀元年(1501)ということになるのだが。
刻銘:「文鬼年七月廿九日」 | 本名号石塔婆群で、造立者名を刻んだものはこれ一基。 |
本石塔婆群の中で、種子を刻んだ碑は南北朝時代に現れるが、それには「孝子敬白」又は「施主敬白」と刻まれている。また、本石塔婆群の中で、
名号を刻む碑の下限は永享二年(1430)で、種子を刻んだものは長享年間(1487~89)になっている。いずれにしても、本石塔婆が南北朝から室町
時代中期の間に造立されたことは間違いないとおもわれる。であれば、文鬼元年が文亀元年(1501)となっても信じられる。口口口口口口口口口口
専称廃寺跡(せんしょうはいじあと)(菅原神社)(宮城県石巻市湊字鹿妻山)
上半を欠損する石塔婆で、年号の部分が欠けているが室町時代前期 応永二十五年(1418)と推定されている。
専称廃寺跡 名号石塔婆 (室町時代前期 応永二十五年 1418年、粘板岩、高さ 55Cm 幅 21Cm 厚さ 10Cm) |
石塔婆は、中央の六字名号の上部を欠損する。下方の左右に「善阿禅門一周忌」、「・・口廿五年四月廿三日」と刻む。
「善阿禅門三年忌」と刻む応永二十七年(1420)銘の石塔婆がある所から、年号の欠けた部分は応永と推定されている。
いずれにしても、中世で二十五年という年号は、三十五年も続いた応永以外存在しない。、口口口口口口口口口口口口
刻銘:「・・口廿五年(1418)四月廿三日」 | 刻銘:「善阿禅門一周忌」 |
専称廃寺跡(せんしょうはいじあと)(菅原神社)(宮城県石巻市湊字鹿妻山)
六字名号を行書体で刻んだ石塔婆で、紀年銘は刻まれていない。
専称廃寺跡(せんしょうはいじあと)名号石塔婆 (紀年銘なし、粘板岩、高さ 78Cm 幅 35Cm 厚さ 9Cm) |
石塔婆は、中央に大きく「南無阿弥陀佛」の六字名号、向って右に「帰西定阿弥陀佛位」の法号を刻む。紀年銘は不明。
刻銘:「南無阿弥陀佛」 | 刻銘:「帰西定阿弥陀佛位」 |
専称廃寺跡(せんしょうはいじあと)(菅原神社)(宮城県石巻市湊字鹿妻山)
阿閦(あしゅく)種子「ウーン」を刻んだ石塔婆で、紀年銘は刻まれていない。
専称廃寺跡(せんしょうはいじあと) 阿閦種子石塔婆 (紀年銘なし、粘板岩、高さ 92Cm 幅 32Cm 厚さ 13Cm) |
石塔婆は、中央に大きく阿閦(あしゅく)種子「ウーン」、他はなにも刻まれていない。
慈恩院(じおんいん)胎蔵界大日種子石塔婆 石仏と石塔-目次!
専称廃寺跡(菅原神社)石塔婆群
石塔婆群は、菅原神社の裏手に37基、このうち32基が名号を刻んでいる。
名号を刻んだ石塔婆で、一番古いのは永仁四年(1296)で、下限は永享二年(1430)になっている。
*JR石巻線 「渡波(わたのは)駅」下車、北西方向へ徒歩 約2.3Km。
(撮影:平成26年4月10日)