専称廃寺跡永徳二年銘名号石塔婆

 専称廃寺跡(せんしょうはいじあと)(菅原神社)(宮城県石巻市湊字鹿妻山)

  追善供養の年忌「三十三年」を刻む名号石塔婆で、南北朝時代後期 永徳二年(1382)の紀年銘がある。

専称廃寺跡 名号石塔婆 (南北朝時代後期 永徳二年 1382年、粘板岩、高さ 80Cm 幅 30Cm 厚さ 5.5Cm)

石塔婆は、中央に大きく「南無阿弥陀仏」の六字名号、下方は「三十三年」の年忌と「妙阿弥陀仏」の法号及び紀年銘を刻む。

石塔婆、下方の刻銘

名号の下に「三十三年」、名号の向って右側に「妙阿弥陀佛」、左側に「永徳二年(1382)五月廿八日」と刻む。

刻銘:「三十三年」永徳二年(1382)五月廿八日」 刻銘:「妙阿弥陀佛」

専称廃寺跡金剛界大日種子石塔婆

 専称廃寺跡(せんしょうはいじあと)(菅原神社)(宮城県石巻市湊字鹿妻山)

  主尊に金剛界大日種子「バン」を刻む石塔婆で、「三十三回忌」の忌日供養の為造立された。南北朝時代後期 永和四年(1378)の在銘。

専称廃寺跡 金剛界大日種子石塔婆 (南北朝時代後期 永和四年 1378年、粘板岩、高さ 100Cm 幅 23Cm)

石塔婆は、上方に金剛界大日種子「バン」、下方に「三十三年」忌の造立趣旨と紀年銘を刻む。

碑面上方、主尊種子「バン」

金剛界大日如来の種子「バン」を薬研彫する。

三十三回忌の本尊は阿閦(あしゅく)だが、この時代、まだ十三仏の仏尊が、定型化されていなかった。

身部下方の刻銘(全文) 刻銘:「永和四年(1378)、戊午、六月日 孝子、敬白」

下方の刻銘は、中央に永和四年(1378)、戊午、六月日 孝子、敬白の紀年銘、

左右に「右志者為過去先妣妙栄禅尼卅三、年之菩提乃至法界平等利益也」と刻む。

[ 亡き母 妙栄禅尼の「三十三回忌」追善供養の為、南北朝時代後期 永和四年(1378)六月に本石塔婆を造立した。]

種子を刻んだ石塔婆は、これより前に一基 「応安二年(1369)三月三月八日」銘の「清阿弥陀仏」一周忌の年忌供養碑がある。

専称廃寺跡名号石塔婆に忌日(年)供養碑が現れるのは、康暦三年(1381)から以降になる。

専称廃寺跡康暦三年銘名号石塔婆

 専称廃寺跡(せんしょうはいじあと)(菅原神社)(宮城県石巻市湊字鹿妻山)

  専称廃寺跡名号石塔婆に忌日供養碑が現れた最初の石塔婆で、南北朝時代後期 康暦三年(1381)の紀年銘がある。

専称廃寺跡 名号石塔婆 (南北朝時代後期 康暦三年 1381年、粘板岩、高さ 103Cm 幅 26Cm 厚さ 11Cm)
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石塔婆は、中央に大きく六字名号、その下方に「三十五日」の忌日、両側に「重阿弥陀仏」の法号と紀年銘を刻む。

専称廃寺跡 名号石塔婆に最初に現れた忌日(年)供養碑で、これ以前は阿弥陀仏号(または専称寺二代)と没年日を刻む名号碑であった。

石塔婆、下方の刻銘

名号の下に「三十五日」、名号の向って右側に「重阿弥陀佛」、左側に「康暦三年(1381)二月廿四日」と刻んでいる。

( 尚、康暦三年(1381)は、この日 二十四日に永徳と改元している。)

忌日:「三十五日(五七日)

※ 専称廃寺跡(せんしょうはいじあと)の石塔婆一覧

  専称廃寺跡 康応二年銘 名号石塔婆                     石仏と石塔-目次!

刻銘:康暦三年(1381)二月 刻銘:「重阿弥陀佛」

 板碑(いたび)

*JR石巻線 「渡波(わたのは)駅」下車、北西方向へ徒歩 約2.3Km。

(撮影:平成26年4月10日)