興禅寺(こうぜんじ)六地蔵板碑(徳島県徳島市国府町西矢野684)
三体ずつ二段に六地蔵を刻んだ板碑で、「宮谷逆修時講衆」の銘や天正十二年(1584)の紀年銘がある
興禅寺 三尊種子板碑 (安土桃山時代 天正十二年 1584年、緑泥片岩、高さ 140Cm 幅 58Cm)
板碑は、上方に二条線、身部は一重の輪郭を巻き、内に三体ずつ二段に六地蔵を刻む。また、桃山時代 天正十二年(1584)の紀年銘がある |
地蔵は、上段右より、弁尼地蔵・光味地蔵・不休息地蔵、下段右より、讃龍地蔵・破勝地蔵・護讃地蔵と順序を保つ(「板碑概説」、服部清道 著、角川書店)
板碑 上部
頭部の山形は尖り、下に二条線、輪郭は二条線の下線を重複して使われる
下段の左右と中央、地蔵の横に「天正十二年(1584)、十一月吉日、宮谷逆修時講衆」の刻銘がある |
板碑に刻まれている天正十二年(1584)は、徳島県下で最も新しい紀年銘になり、全国的に見ても青石板碑文化の終焉に近い頃の作品に違いない。
板碑 下部
下部に「弥七、彦七郎、又四郎、弥十、彦四郎、妙賢、孫四郎、源三郎、大史、新九郎、助左衛門、口兵衛、小左衛、
口五郎、喜法、次郎衛門、妙弥、二五郎、口口、妙真、助五郎、五郎三郎、六郎二郎」と二十三名の講衆名を記している
興禅寺(こうぜんじ)
六地蔵板碑は、右側の道路沿いに立っている
阿波国分寺(あわこくぶんじ)(徳島県徳島市国府町矢野718-1)
聖武天皇が天平十三年(741)に勅を発し、建立された国分寺の一つで、四国八十八カ所第十五番札所。現在は、曹洞宗の寺院
七重塔 心礎 (奈良時代後期 天平年間 729~749)
もと「塔ノ本」か、「興禅寺」の前あたりにあったといわれている
七重塔心礎 部分、環溝型という珍しい形式 | ||
阿波国分寺本堂 | 仮大師堂前の青石(緑泥片岩)石塔 |
青石石塔は、「奉唱常光明真言一切三宝供養塔」と中央に彫られる。また、境内は、四国八十八カ所巡礼の人々が、たくさんお参りに来られていた
伽藍跡
青石(緑泥片岩)がふんだんに使われ、青石文化の一端を知ることができる
阿波 国分寺
*JR徳島線、「府中(こう)駅」下車 南方向へ 約2Km。又は、徳島駅から徳島バス 延命経由・神山線に乗車、「国分寺バス停」下車 約400m。興禅寺は国分寺の南側、約50m。
(撮影:平成22年5月30日)