大崎廃寺跡・遍照寺・高松城跡の文英様石仏

  文英様式の石仏とは、吉備固有の石仏群で、独特の面相と素朴な体部表現の石仏。「文英(ぶんえい)」の名を刻む石仏が四体確認されたことから、同様の作風を持つ

  石仏を  文英様(ぶんえいよう)石仏と称している。石仏の銘から天文二年(1533)〜天正十年(1582)の約五十年の間につくられたことがわかっている。

 大崎廃寺跡 地蔵石仏(岡山県岡山市大崎)

  「文英」の名を刻み、文英石仏を代表する一体

大崎廃寺跡 地蔵石仏(室町時代後期 天文四年 1535年、高さ 123Cm 幅 85Cm)

「念佛講 文英筆」「天文四年(1535)乙未五月日」の刻銘が地蔵の両側に刻まれている。文英様石仏のチャンピオン作品

 遍照寺 文英様石仏(岡山県岡山市大崎)

遍照寺石仏(室町時代後期、高さ 106Cm 幅 60Cm)

  高松城跡2号石仏(岡山県岡山市高松)

高松城跡2号石仏(室町時代後期 天文十六年 1547年、高さ 105Cm 幅 51Cm)

昭和50年の発掘調査で、高松城本丸捨石の中から発見された地蔵石仏。。「天文十六年(1547)丁未、守庚申衆」の刻銘がある

 客人大明神 神像(岡山県岡山市高松・高松城跡)

客人大明神 神像(室町後期 天文二年 1534年、高さ 82Cm 幅 43Cm)、明治末に本丸跡から出土した文英様石仏最古の紀年名を持つ

「客人大明神、天文二癸巳(1534)の刻銘がある

高松城主 清水宗治の胴塚

天下統一の為、織田信長は毛利方を攻め西進した。織田軍の先鋒羽柴秀吉は、ここ高松城の周囲に堤防を築き水攻めを行った。一ヶ月余を経た折、

本能寺の変がおこり、信長は落命した。秀吉は毛利方と講和を急ぎ、高松城主 清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、高松城を落城させた

 持宝院・地蔵院・真福寺の文英様石仏                         石仏と石塔-目次!

高松城主 清水宗治の首塚

 石  仏-紀年順-目次

*JR吉備線「備中高松駅」下車、北方向へ 徒歩10分。

(撮影:平成21年3月30日)