西方院(さいほういん)五輪塔

 西方院(さいほういん)(奈良県奈良市五条2-9-6)

  唐招提寺の塔頭の一つで奥の院と呼ばれる。鎌倉時代中期の寛元元年(1243)に慈善上人により開かれた

西方院五輪塔(県指定文化財、鎌倉時代後期 正応五年 1292年頃、花崗岩、高さ 240Cm)

五輪塔 風・空輪 (一石からなり、空輪は下膨れの形)
五輪塔は、門を入って左手側の境内に安置されている 五輪塔 火輪 (軒口は厚く、両端で反る)

五輪塔 地輪・反花座

地輪は四面とも無地で、刻銘はない。反花座は複弁の奥に小さな弁を作った子持ち複弁

五輪塔 水輪 (ほぼ球形の美しい形をしているが、最大径はやや上にある)
五輪塔 複弁反花座、複弁の奥に小さな弁をつくる 五輪塔は、昭和44年の解体修理で中興二世 證玄和尚の墓塔と判明した

解体修理の際、基壇下より石室が発見され、その中から銘文が刻まれた銅製の舎利筒が見つかった。

造立年代が明らかな大型五輪塔

舎利筒の銘文により、證玄(しょうげん)和尚は鎌倉時代後期の正応五年(1292)八月十四日に入滅したとあり、五輪塔は入滅後造立された

周りが小石仏で覆われた廟、頂上に九重石塔が立っている 境内にある石燈籠、火袋に梵字が刻まれ、火口は横面にあった

護持院隆光の五輪塔

正面の各輪に、下から胎蔵界大日如来報身真言「ア・ビ・ラ・ウーン・ケン」を刻む。西方院は、隆光(りゅうこう)が得度出家した寺院

五輪塔地輪の背面に、隆光が没した江戸時代中期 享保九年(1724)六月七日の銘が入っている。隆光は五代将軍綱吉、生母桂昌院の寵愛を受けた

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西  方  院 (さいほういん)

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*近鉄橿原線「西ノ京駅」下車、北方向へ 徒歩 約11分

(撮影:平成21年8月25日)