文永寺(ぶんえいじ)(長野県飯田市下久堅南原1142)
文永寺は、鎌倉時代中期 文永元年(1264) 当地の土豪 知久信貞により創建された真言宗の古刹。
文永寺(ぶんえいじ)五輪塔(長野県飯田市下久堅南原1145-3)
五輪塔・石室は、知久信貞の子といわれている神(みわ)敦幸が鎌倉時代中期 弘安六年(1283)に造立した。南都石工 菅原行長の作。
文永寺(ぶんえいじ)五輪塔 ( 重要文化財、鎌倉時代中期 弘安六年 1283年、花崗岩、高さ 116.7Cm)
石室及び五輪塔は、山門から本堂へ至る参道の左手側 やや離れた場所にある。また、石室に収められた五輪塔は、空輪が天井に接する程ちかい。
五輪塔は、石室内に南面して立つ。風・空輪が大きく作られ、各輪に五輪塔四門の梵字が刻まれている。石室内のため保存状態は良好。 |
五輪塔 四門の梵字、上(空輪)から下(地輪)へ
キャ・カ・ラ・バ・ア (南面:東方発心門) キャー・カー・ラー・バー・アー (西面:南方修行門)
ケン・カン・ラン・バン・アン (北面:西方菩提門) キャク・カク・ラク・バク・アク (東面:北方涅槃門)
風・空 輪
一石からなり、空輪は宝珠の形。他の輪と比べ特徴的に大きい。
火 輪
軒は厚く、軒反は緩く両端で反る。
水 輪
壺型で、高さ(29.1Cm)に比べ 幅(39.4Cm)がやや長い。
地 輪(正面)
地輪(横43Cm,縦272Cm)は背が低く古調、中央の梵字は正面 「ア」より右回りに
「ア(宝幢)」・「アー(開敷華王)」・「アン(無量寿)」・「アク(天鼓雷音)」で胎蔵界四仏の種子になる。
文永寺(ぶんえいじ)五輪塔 ( 重要文化財、鎌倉時代中期 弘安六年 1283年)
石室の天井に「南都石工、菅原行長」の刻銘があり、京都府和束町の湯船(ゆぶね)宝篋印塔残欠と同じ作者とみられている。
文永寺(ぶんえいじ)石室(長野県飯田市下久堅南原1145-3)
文永寺石室 ( 重要文化財、鎌倉時代中期 弘安六年 1283年、花崗岩、切妻造平入 軒高 120Cm 棟高 175.5Cm)
五輪塔を置く床板に厚さ約30Cmの二石で三方を囲み、屋根に二枚の平石を前後平入に懸ける。その上に棟石を載せている。
尚、昭和61年(1986)の解体修理の際、石室の床石に納骨の為の穴が開いており、その下に焼骨や1400年代の銅銭・焼物がつまった
常滑焼の壺(12世紀製)が発見されている。銅銭の年代から五輪塔設置後も何らかの宗教的な儀式が行われていたと思われている。
石室 天井の刻銘
前石の天井下面に、上段六行 下段四行にわたる刻銘がある。
上段刻銘:「弘安六年(1283)、癸未十二、月二十九日、神(みわ)敦幸造、南都石工、菅原行長」、
下段刻銘:「左衛門尉、神敦幸、成年六、十二歳」
神敦幸(みわあつゆき)(知久敦幸)六十二歳の鎌倉時代中期 弘安六年(1283)十二月二十九日に造立した。石工は南都石工 菅原行長である。
尚、神敦幸(知久敦幸)は上記紀年銘の一日前、弘安六年(1283)十二月二十八日に逝去している。
石室 北東面
東面は、幅150Cm。北面は、幅161.2Cm.
石室 北西面
屋根石は、二枚を突き合わせて 上方屋根面を傾斜させている。
※他の石室の例は石室 紀年銘別一覧を参照してください。
文永寺(ぶんえいじ)(真言宗智山派)
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*JR飯田線「駄科(だしな駅」下車、南東方向に徒歩 約15分。
(撮影:平成28年9月2日)