西方寺跡(さいほうじあと)宝篋印塔

 西方寺跡(さいほうじあと)宝篋印塔(福井県小浜市和久里)

  宝篋印塔は、「市塔尊」として信仰され、七年祭(十二支の子と午の年)に壬生狂言が奉納される。

西方寺跡宝篋印塔(県指定文化財、南北朝時代 延文三年 1358年、花崗岩、高さ 317Cm)

塔身正面、月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫する(ウーン:阿閦如来)
国道27号線 和久利交差点の北、JRの線路を越してすぐ右手に立つ 塔身南面、月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫する(タラーク:宝生如来)

笠の段形は、下二段、上六段、隅飾は二弧輪郭付でやや外傾し、内は無地。

軒 四隅の下辺に風鐸を吊るした金具が残っている。

塔身西面、月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫する(キリーク:阿弥陀)
塔身北面、月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫する(アク:不空成就) 宝篋印塔は、塔身の梵字が金色に塗られ御神体として信仰されている

基礎 側面

基礎上端は複弁反花、側面は輪郭を巻き内に格狭間をつくる。両脇の側面は格狭間内に近江文様の宝瓶三茎蓮を陽刻する

基礎背面、格狭間のみで文様はない
相輪は後補で、角ばった伏鉢の上に請花・九輪・請花・宝珠と続く 基礎正面、格狭間内に開蓮華を陽刻する。束に銘文がある

  束の銘文

刻銘:「延文三秊(1358)戊戌七月廿二日」 刻銘:「大願主沙弥朝阿」

塔の造立者は、刻銘から朝阿と知れる。朝阿は、南朝の代官として小浜に住した永井雅楽介で、延元二年(1337)に出家し、朝阿弥と号した。

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宝篋印塔は、「市塔尊」として信仰され、七年祭(十二支の子と午の年)に壬生狂言が奉納される。

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*JR小浜線「小浜駅」下車、東方向へ 約1.5Km。

(撮影:平成21年11月23日)