踊り念仏の碑(阿弥陀種子石塔婆)(宮城県登米市南方町板倉87)
五十余人の結縁衆が四十八日間 「踊り念仏」を修したと記す供養碑で、時宗開祖 一遍没後十一年目にあたる正安二年(1300)の紀年銘がある。
踊り念仏の碑(阿弥陀種子石塔婆)(県指定文化財、鎌倉時代後期 正安二年 1300年、安山岩、高さ 102Cm)
板倉の村落、覆屋内に安置されている。自然石の表面上方に大きく阿弥陀種子「キリーク」、下方に造立趣旨と紀年銘を刻む。 |
石塔婆 上方
阿弥陀如来の種子「キリーク」を刻む。
石塔婆下方の刻銘 | 刻銘:「正安二年(1300)閏七月」 |
石塔婆下方の刻銘は、左右に「右為四十八日踊念佛結衆等、五十余人結衆」、「敬所奉造立也、所志各々聖霊成佛法楽等也」、
中央に「正安二年(1300)、庚子、閏七月十五日」と刻む。
石塔婆 下部
刻銘は、時宗の「踊り念仏」を「五十余人の結縁衆が、阿弥陀の四十八願になぞらえて四十八日間 修した。」というもので、
時宗関係の貴重な資料となっている。尚、一遍は弘安三年(1280)、祖父河野道通(みちのぶ)の墓(岩手県北上市)をたず
ねて信州から奥州へと脚を延ばし、無事墓参りをした後、平泉・松島へ巡行、その後 常陸へと戻っている。「踊り念仏」は、
弘安二年(1279) 信州佐久郡の大井太郎という武士の屋敷でに三日三晩踊ったのを始めとしている。本石塔婆の正安二年
は、一遍が祖父道通を奥州に訪ねた弘安三年から二十年後で、五十余人の結縁衆も一遍の教化による人々と考えられる。
石塔婆下方の刻銘
左右に「五十余人結衆」、「敬所奉造立也」、中央は「閏七月十五日」。
「踊り念仏の碑」 覆屋
碑は、道端の覆屋内に安置されている。
*東北本線 瀬峰駅前から登米市民バス 南方線に乗車、「板倉バス停」下車、西方向へ 約400m。
(撮影:平成26年 4月11日)