(仙台市史 No:B-18)
善応寺(ぜんおうじ・ぜんのうじ)蒙古の碑(宮城県仙台市宮城野区燕沢 2-3-1)
銘文が追刻かどうか等、ある意味有名な石碑で、「蒙古の碑」とよばれている。碑面に記された紀年銘は鎌倉中期 弘安五年(1282)。
善応寺(ぜんおうじ)種子石塔婆(蒙古の碑)( 鎌倉時代、花崗質砂岩、高さ 170Cm 幅 89.5Cm 厚さ 40Cm )
碑面は研磨し、石面上部に種子「ラ」を月輪内に薬研彫り、下方に五行の罫線が引かれ銘文を四行、最後の一行に紀年銘を刻む。 |
本碑は、江戸時代中期の「奥州名所図会」に紹介、それによると蒙古襲来時に元軍戦没者を無学祖元(むがくそげん)が弔ったという伝承があるという。また、
明治時代には、碑の真偽に関して論じられ、また昭和16年(1941)には、当時の蒙古連合自治政府主席 徳王がこの碑を参拝、それを機に現在地に移設された。
石塔婆 上部
種子「ラ」を月輪内に薬研彫する。「ラ」は、大吉祥大明菩薩の種子として使われる。
また、「ラ」は胎蔵界大日真言「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」としてなじみ深い梵字。
石塔婆 下部の刻銘 | 刻銘:「弘安第五天(1282)、玄●、敦牂、仲秋(八月)」 |
刻銘は省画や古異体字を多く並べ、ミステリアスな感じ。(銘文の読みには諸説ある)。下記は、「仙台市史 板碑」に掲載されている志村五城が試みた解読。
刻銘:「夫以人直宜従道、人正益挙教云刈、丘断匈砥弔亡魂、元前死次後殞矣」
紀年銘:「弘安第五天(1282)、玄●、敦牂、仲秋(八月)、二十日、彼岸終、里末、清俊、 謹拝」 (●は)
善応寺(ぜんおうじ) 蒙古之碑
門内、左手に安置されている。
蒙古の碑、裏面
江戸時代中期 享保八年(1723) 「大乗妙典 一字一石之塔」として流用されている。
「蒙古の碑」裏面。一字一石塔に転用されている。 | 刻銘:「享保八年(1723)癸卯 重阳(ようせつ:九月九日)」 |
善応寺(ぜんのうじ)本堂
本尊は十一面観音立像。
善応寺(ぜんのうじ)(臨済宗)
江戸時代中期 元禄十年(1697)、仙台藩 三代藩主 伊達綱宗が次男の別荘地を通玄(つうげん)に与え開山させたという。
通玄は、黄檗宗 隠元に学び、瑞巌寺 百三世を務めた僧。
*東北本線「東仙台駅」下車、北方向へ徒歩 約12分。
(撮影:平成26年4月9日)