洞ノ口(どうのくち)石塔婆群(宮城県仙台市宮城野区岩切字洞ノ口103)
洞ノ口遺跡の南端にあたる民家の前庭に鎌倉時代後期の結衆石塔婆 三基を中心に四基の石塔婆がある。
洞ノ口(どうのくち)石塔婆群 四基 (鎌倉時代後期、花崗質砂岩)
向って左端から二十余人、二十五人、一基おいて二十人の結衆石塔婆。
洞ノ口(どうのくち)石塔婆群 四基
紀年銘のある石塔婆は、向って左端のみで鎌倉時代後期 元応二年(1320)銘
紀年銘のある結衆石塔婆は、仙台市と多賀城市に十三基あり、いずれも鎌倉時代後期の在銘。
洞ノ口(どうのくち)石塔婆群(宮城県仙台市宮城野区岩切字洞ノ口103)
阿弥陀種子「キリーク」を主尊とする二十余人結衆自然石塔婆で、鎌倉時代後期 元応二年(1320)の紀年銘がある。
洞ノ口 阿弥陀種子石塔婆 (鎌倉時代後期 元応二年 1320年、花崗質砂岩、高さ 124.4Cm 幅 72Cm 厚さ 42.5Cm) |
四基ある石塔婆の向って左端。石面上部に阿弥陀如来の種子「キリーク」、下方左右に「右為講衆廿余人口霊、
乃至自他法界平等利益」、中央に「元応二年(1320)四月十四日 敬白」の刻銘がある。
文字通り講衆二十余人が元応元年(1320)四月十四日に結集して造立した石塔婆である。
(仙台市史 No:B11-2)
洞ノ口(どうのくち)石塔婆群(宮城県仙台市宮城野区岩切字洞ノ口103)
四月八日の灌仏会(かんぶつえ)の日に二十五人が結集して造立した石塔婆で、鎌倉時代後期の作品と推定されている。
洞ノ口(どうのくち)結衆自然石塔婆 (推定:鎌倉時代後期、花崗質砂岩、高さ 156.8Cm 幅 62.6Cm 厚さ 39.5Cm) |
上方の主尊種子は、一部を残し剥落する。下方も剥落が見られるが、二十五人の結衆石塔婆であることが確認できる。
石塔婆 下方
四行の刻銘があり「・・・・・二二(四)月、八日、敬白」「・・・・生死往、生極楽也、・・・等二十五人」と刻む。
四月八日の灌仏会(かんぶつえ)の日に二十五人が結衆して造立された石塔婆。
紀年銘のある結衆石塔婆は、当地域(仙台市と多賀城市)に十三基あり、いずれも鎌倉時代後期の在銘で、本石塔婆も、鎌倉時代後期の造立と推定されている。
(仙台市史 No:B11-3)
洞ノ口(どうのくち)石塔婆群(宮城県仙台市宮城野区岩切字洞ノ口103)
金剛界大日種子「バン」を主尊とする自然石塔婆で、紀年銘はないが鎌倉時代後期の造立と思われる。
洞ノ口(どうのくち)金剛界大日種子石塔婆 (推定:鎌倉時代後期、花崗質砂岩、高さ 96Cm 幅 51.2Cm 厚さ 31.2Cm)
中央に金剛界大日如来の種子「バン」を刻む。下方の刻銘は不明。
石塔婆 中央
金剛界大日如来の種子「バン」を薬研彫する。
(仙台市史 No:B11-4)
洞ノ口(どうのくち)石塔婆群(宮城県仙台市宮城野区岩切字洞ノ口103)
別時念仏会の際、二十名により造立された自然石塔婆で、紀年銘はないが鎌倉時代後期の造立と思われる。
洞ノ口(どうのくち)結衆石塔婆 (推定:鎌倉時代後期、花崗質砂岩、高さ 141.2Cm 幅 63.4Cm 厚さ 17.4Cm)
石面は、上方の種子部を剥落、下方は、五行の刻銘を残すが、上部を剥落する。
刻銘:「・・・別時、・・・面々各々、・・・・父祖母、・・・慈父悲母、・・・已上廿人」
別時とあり、念仏の行者が、特別の時日・期間を定めて称名念仏をする念仏会の際、二十人が結衆し、造立したものと思われる。
岩切(いわきり)三所北 種子石塔婆(義経石) 石仏と石塔-目次!
洞ノ口(どうのくち)石塔婆群 東の三基
石塔婆群は、保育園の東側に隣接する民家の前庭に立っている。
*東北本線「岩切駅」下車、西方向へ徒歩 約3分。
(撮影:平成25年10月11日)