永厳寺(えいがんじ)(宮城県石巻市羽黒町1-1-27)
一百ヶ日忌に造立された石塔婆で、忌日供養碑として宮城県内最古 鎌倉時代中期 建治元年(1275)の紀年銘がある。
永厳寺(えいがんじ)釈迦三尊種子板碑(鎌倉時代中期 建治元年 1275年、粘板岩、高さ 180Cm 幅 40Cm 厚さ 22Cm)
永厳寺の北隣、大聖不動明王の参道、石段の手前 左手に立つ石塔婆群の中に立っている。 |
板碑は、釈迦種子を主尊とし地蔵種子を両脇侍とする三尊種子板碑で、各々蓮座上月輪内に種子を刻む。板碑下方は二段に分け、上段の枠内に
四行の罫線を引き涅槃経に出る偈(げ)、下段の枠内に五行の罫線を引き、中央に「建治元年(1275)」の紀年銘、左右 各二行に願文を刻んでいる。
石塔婆 頭部
頭部山形、表面は剥落がある。また、身部全体を巻く輪郭線はない。
身部上方、釈迦三尊種子 | 身部下方、上段に偈、下段に願文と紀年銘を刻む。 |
三尊種子は、上方に釈迦如来の種子「バク」、向って右下に地蔵菩薩の種子「イー」、左下に地蔵菩薩の異なる梵字「イ」を各々蓮華座上月輪内に刻む。
身部下方 上段、涅槃経に出る偈(げ)
偈(げ):「我既往生彼国邑(がきおうじょうひこくゆう)、現前成就次第願(げんぜんじょうじゅしだいがん)、
一切円満尽無余(いっさいえんまんじんむよ)、利益一切衆生界(りやくいっさいしゅじょうかい)」
[ 我(普賢菩薩)は既に彼国(極楽浄土)に往生して、眼前に此の大願(普賢菩薩の十大願)を成就し、一切円満にして余す所なく、すべての衆生界を利益せん。]
身部下方 下段、紀年銘と願文
中央に「建治元季(1275)乙亥、四月廿七日」、左右に「右志者為過去尊高、聖霊相当一百ヶ日忌景」
「出離生死往生極楽、乃至法界無差平也」の願文を刻む。
宮城県内最古「建治元年(1275)四月廿七日」の忌日供養碑で、貴重な歴史資料となっている。
刻銘:「建治元季(1275)」 | 釈迦種子の両脇侍に地蔵種子を刻むのは珍しい。 |
永厳寺(えいがんじ)(宮城県石巻市羽黒町1-1-27)
阿閦(あしゅく)種子を主尊とする石塔婆で、鎌倉時代後期 徳治二年(1307)の紀年銘がある。
永厳寺 阿閦(あしゅく)種子石塔婆 (鎌倉時代後期 徳治二年 1307年、粘板岩、高さ 140Cm 幅 38Cm 厚さ 20Cm)
身部上方、阿閦(あしゅく)如来の種子「ウーン」 | 身部下方の刻銘 |
身部下方、上部中央「右為」の向って右下に「理口幽霊生解脱」、左下に「徳治二年(1307)三月六日」の刻銘がある。
永厳寺(えいがんじ)石塔婆群
向って左端が釈迦三尊種子板碑、右端が阿閦(あしゅく)種子石塔婆。
両塔婆とも来歴は不明。永厳寺不動堂の参道、左手に並んで立っている。
永厳寺(えいがんじ)(曹洞宗)
江戸時代前期 寛永十六年(1639)開山、翌十七年(1640)に現在地に移転 名を菩提山永厳寺と改める。
*JR石巻線・仙石線 「石巻駅」下車、南方向へ徒歩 約9分。
(撮影:平成25年10月11日)