上醍醐町石(かみだいごちょういし)笠塔婆(京都市伏見区醍醐醍醐山)
上醍醐への登山口から開山堂まで、一町ごとに町石が三十七基立てられ金剛界三十七尊を表した
金剛語菩薩 十六町 寛永十八年(1641)十月 日 高さ 137Cm
二町石から登ってきて、初めて笠の残っている町石笠塔婆になるが、再興の寛永十八年(1641)製。頂部の宝珠・請花が欠けている
金剛業 十七町 (寛永以前の作) | 金剛護 十八町 (寛永以前の作) |
町石は正面上方に大きく梵字を刻み、その下に金剛界三十七尊名、町目、側面に願主名、制作年を刻む。但し、寛永以前の町石には、紀年名が入らない
十八町石をすぎて、さらに山道を登って行くと二本の大きな木に結界が張られている
金剛牙菩薩 十九 寛永十一甲戌季 醍醐山教存(願主) | 金剛拳 廿町 法印前権大僧都親快(願主)高さ 152Cm |
十九町石は寛永十一年(1634)の紀年名がある。寛永十一年銘はこの一基のみで、寛永十八年(1641)の大補修に先駆けるものと見られている
二十町石に刻まれている願主の親快は、建治二年(1276)五月二十六日に六十二歳で没した。このことからこの町石が鎌倉時代に作られた事が判る
金剛香 廿一町 法印大僧都行誉(願主) 高さ 140Cm 前幅 30Cm 横幅 25Cm
二十一町石に刻まれた願主の行誉については、二十町石の願主「親快」が文永八年(1271)に行誉に印信を授けた文章があり、この町石も鎌倉時代に作られた
金剛花 廿二町 権少僧都覚済(願主名) 高さ143Cm | 廿二町石を過ぎると中国風の亀趺(きふ)に載せた石碑が立つ |
第二十二町石の願主:権少僧都覚済の名は、文永七年(1270年・鎌倉時代中期)の高野山 胎蔵界十九町石に
「為先師前権僧正勝尊 権少僧都覚済 文永七年八月二十三日」の銘文があり、造立時期が明らかになっている
高野山 十九町石 (十九町の下に「権少僧都覚済」の銘がある)
金剛燈 廿三町 高さ 134Cm(寛永以前の作) | 金剛嬉 廿五町 高さ 127Cm(寛永以前の作) |
金剛界三十七尊
五仏(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)、四波羅密菩薩(金剛・宝・法・羯磨)、十六大菩薩 菩提心門(薩埵・王・愛・喜) 福徳門(宝・光・幢・咲)
知恵門(法・利・因・語) 精進門(業・護・牙・拳)、八供養菩薩 内四供養(嬉・髣・歌・舞) 外四供養(香・華・燈・塗)、四攝菩薩(鉤・索・鏁・鈴)
金剛髣 廿六町 (寛永以前の作)
寛永以前の作(鎌倉時代)で、二町石から登って最初の笠が欠けてない町石笠塔婆。頂部の請花・宝珠は、欠けている
寛永以前(鎌倉時代)作、町石(廿六町石)の笠 | 寛永十八年(1641)作、町石(十六町石)の笠 |
古い町石の笠は、照り屋根(下向きに反る)、寛永十八年の笠は照りむくり屋根(上方が上向きに反り、下方が下向きに反る)の形になる
廿六町石をすぎて廿七町石の手前には、石段を設け上部中央に役行者の石像を祀る
上醍醐町石(かみだいごちょういし)笠塔婆 (3) 石仏と石塔-目次!
金剛歌 廿七町 (笠があり阿弥陀の種子キリークを刻む) | 金剛舞 廿八町(身部上に枘がなく孔が穿たれている特殊な例) |
(参考文献:「京都府史蹟名勝天然記念物調査報告書 第十八册」 臨川書店)
*京都地下鉄「醍醐駅」下車、またはJR山科駅前・京阪山科駅前から京都バス「醍醐三宝院バス停」下車、徒歩
(撮影:平成21年1月20日、平成21年3月26日)