高野山町石(こうやさんちょういし)(和歌山県伊都郡高野町・かつらぎ町・九度山町)
九度山町の慈尊院から伽藍大塔まで180町に180基、大塔から奥の院大師廟までの36町に36基の五輪卒塔婆を立て町石とした
奥院側(大塔から奥の院大師廟まで36町に36基の町石が立つ。町石は金剛界三十七尊を表し、すべて国史跡)
二十五町石(国史跡、鎌倉時代中期 文永五年 1268年 頭部大正二年後補、花崗岩、本尊の種子:金剛嬉菩薩) | ||
正面刻銘:「秋田城介藤原朝臣泰盛」、左面:「文永五年戊辰閏正月十七日」、右面:「為曽祖父藤原盛長入道」 |
願主(造立者)の「秋田城介藤原朝臣泰盛」は、この鎌倉時代の町石再興にあたって大きな力になった人物
二十六町石(国史跡、鎌倉時代中期、花崗岩、本尊の種子:金剛鬘薩埵)
正面刻銘:「沙門了心」
町石五輪卒塔婆は正面に五輪塔の梵字を刻み、その下に大きく本尊の種子、町目、願主名や願文を刻んでいる
二十七町石(鎌倉時代中期、本尊種子:金剛歌菩薩) | 二十八町石(鎌倉時代中期、本尊種子:金剛舞菩薩) | |
正面刻銘:「左衛門尉紀高直」 | 正面:「比丘尼法子」、右面:「比丘尼智阿」 |
高野山町石は弘法大師空海が登山者の道しるべとして、弘仁七年(816)に木製の卒塔婆を建立したと伝えられ、鎌倉時代中期の文永二年(1265)に
覚きょう上人が発願して石造卒塔婆に立て替えられた。20年後の弘安8年(1285)に落慶法要が行われている。桃山・江戸・大正時代に改補修したものもある
二十九町石(国史跡、鎌倉時代中期、花崗岩、本尊種子:金剛焼菩薩)
正面:「藤原氏女」、左面:「沙弥了縁源経氏同経好同維康、同氏為同氏長沙弥寂蓮」、右面:「比丘尼浄念 比丘尼坊阿、比丘尼心阿 比丘尼大阿」
三十町石(鎌倉時代中期、本尊の種子:金剛華菩薩) | 三十一町石(鎌倉時代中期、本尊の種子:金剛灯菩薩) | |
正面:「比丘尼誓真」 | 正面:「比丘尼唯心」 |
町石は花崗岩製で、大きさは 高さ 267Cmで30Cm角(一尺)を標準としている
三十二町石(江戸時代後期 寛政三年 1791年、花崗岩、本尊の種子:金剛塗菩薩)、四門の梵字が頭部に入る。(越前松平家石廟前) |
正面:「先祖代々諸聖霊等為、仰譽宗信、願譽英心、現當二世安楽也」、背面:「宿坊、北室院」
左面(写真:上右):「稱音院教誉現道助住居士 照缶光誉躍運童子、聲清院轉誉永壽麗遊大姉 道樹院永誉現観宗和泉信士、
橋樹院道誉法輪宗轉法子 義乗院徹誉到運信士 光誉順和定安居士、永稱院清誉栄輪智順大姉 相容院本誉覚成栄壽大姉」
右面:「梅芳香運童子、圓浄香薫童子、寶池院生誉妙蓮壽慶信女 寛政三辛亥年(1791)四年、月観的水童子、不遠院十誉即生信士」
三十三町石(国史跡、安土桃山時代 天正十八年 1590年、砂岩、本尊種子:金剛鉤菩薩)
正面:「輿山上人」、左面:「天正十八年辛未七月廿一日」、右面:「為自他法界平等利益」
33町石は珍しく、高野山町石の中で唯一 桃山時代の制作で材質が砂岩製
三十四町石(鎌倉時代中期、本尊の種子:金剛索菩薩) | 三十五町石(鎌倉中期 文永三年 1266年、種子:金剛鏁菩薩) | |
正面:「比丘尼能佛」、左面:「為覺智尊霊也」 | 正面:「比丘尼意阿」、左面:「文永三年丙寅十二月廿八日」 |
三十六町石は、弘法大師廟内の左側に立っている(立入り・撮影禁止)
三十六町石(鎌倉時代中期 文永四年 1267年、花崗岩、本尊種子:金剛鈴菩薩)
正面刻銘:「太上天皇」(後嵯峨天皇を指す)、左面紀年銘:「文永四年丁卯三月廿一日」
外国人観光客で賑わう奥院参道、正面奥に見えるのは燈籠堂。燈籠堂の奥が弘法大師御廟
高野山町石五輪卒塔婆、1~10町石(慈尊院側) 町石目次 石仏と石塔-目次!
高 野 山 金 剛 峯 寺
建物は、明治初年まで青厳寺と呼ばれた寺院で豊臣秀吉が建立した。明治以来この伽藍が金剛峯寺になってから一山の中心となった。
(参考文献:「高野山町石の研究」 愛甲昇寛 著、密教文化研究所 他)
五輪塔紀年順 | 高野山 133・135町石五輪卒塔婆(慈尊院側)(鎌倉時代中期) | 五輪塔-紀年順-目次 |
*南海電鉄 極楽橋よりケーブル「高野山駅」下車、南海バス乗車。
(撮影:平成21年4月23日、平成21年6月2日))