高野山町石(ちょういし)五輪卒塔婆

 高野山町石(こうやさんちょういし)(和歌山県伊都郡高野町・かつらぎ町・九度山町)

 九度山町の慈尊院から伽藍大塔まで180町に180基、大塔から奥の院大師廟までの36町に36基の五輪卒塔婆を立て町石とした

31〜40町石(伽藍大塔〜慈尊院)

  慈尊院側(九度山慈尊院から大塔まで180町に180基の町石が立つ。町石は胎蔵界百八十尊を表し、すべて国史跡)

三十一町石(国史跡、鎌倉時代中期、花崗岩、本尊種子:不空羂索菩薩)

左側面 願主刻銘:「藤原氏女大江氏女、比丘尼定阿」

町石五輪卒塔婆は正面に五輪塔の梵字を刻み、その下に大きく本尊の種子、町目、願主名や願文を刻んでいる

三十一町石 正面願主:「比丘尼妙蓮、比丘尼受縁」 三十二 町石(鎌倉中期 弘安四年 1281年、種子:豊財菩薩)
右面願主:「藤原氏女、藤原氏女」 頭部昭和35年の後補、正面:「比丘尼了證」左面願文:下段
「弘安四年十二月廿一日光寿院下僧三□、伐懸大火断折華因茲為主人大法師隆円、之沙汰造替之干時検校賢隆為未来記之」

高野山町石は弘法大師空海が登山者の道しるべとして、弘仁七年(816)に木製の卒塔婆を建立したと伝えられ、鎌倉時代中期の文永二年(1265)に

覚きょう上人が発願して石造卒塔婆に立て替えられた。20年後の弘安8年(1285)に落慶法要が行われている。桃山・江戸・大正時代に改補修したものもある

三十三町石(鎌倉時代中期、本尊種子:白身観自在菩薩) 三十四町石(鎌倉時代中期、本尊種子:金剛説菩薩)
正面願主:「沙弥道親平朝臣光忠、左衛門尉平朝臣忠員」 正面願主:「源氏女」、頭部は大正2年(1319)の後補

町石は花崗岩製で、大きさは 高さ 267Cmで30Cm角(一尺)を標準としている

三十五町石(国史跡、鎌倉時代中期、花崗岩、本尊種子:大輪金剛菩薩)

正面願主:「沙弥西忍」      左側面刻銘:「尾寒兵衛入道」

四里石(鎌倉中期 弘安元年 1278年)、左面:「弘安元年十月 日」、正面願主:「藤原長宗」、右面願文:「為祖父秋田城介藤原義景」

里石は慈尊院側から伽藍大塔方向へ、三十六本毎に各一本、町石と同じ形のものが、計四本建っている

三十六町石(国史跡、鎌倉時代中期、花崗岩、本尊種子:金剛輪持菩薩)

正面願主:「平氏女」

三十七町石(鎌倉中期、花崗岩、地輪長 200Cm 幅 29.5Cm) 三十八町石(鎌倉中期、本尊種子:発生金剛部菩薩)
正面願主:「比丘尼専観」 正面願主:「平氏女」、地輪長 175Cm 幅 29.5Cm

37・38・39町石は国道480号線のコンクリート道路沿いにあり、現在の町石道からはずれて建っている

 高野山町石五輪卒塔婆、41〜50町石(慈尊院側)      町石目次    石仏と石塔-目次!

三十九町石(鎌倉中期、本尊種子:金剛拳菩薩) 四十町石(鎌倉中期 文永七年 1270年、本尊種子:持金剛鋒菩薩)
正面願主:「比丘尼如願」、頭部昭和35年(1960)の後補 正面願主:「宗像入道浄恵」、左側面:「文永七年三月廿一日」

四十町石の願主(造立者)「宗像入道浄恵」は、大宰府の名家少貮氏の出資で、「文永・弘安の蒙古襲来」 時に活躍した人で、在俗後この法名を名乗っている

                                            (参考文献:「高野山町石の研究」 愛甲昇寛 著、密教文化研究所 他)

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*南海電鉄 極楽橋よりケーブル「高野山駅」下車、南海バス「大門バス停」下車 徒歩。又は南海電鉄「九度山駅」下車、北西へ 徒歩1.5Kmの慈尊院から町石道を歩く

(撮影:平成21年3月26日、平成21年4月23日)