高野山町石(ちょういし)五輪卒塔婆

 高野山町石(こうやさんちょういし)(和歌山県伊都郡高野町・かつらぎ町・九度山町)

 九度山町の慈尊院から伽藍大塔まで180町に180基、大塔から奥の院大師廟までの36町に36基の五輪卒塔婆を立て町石とした

101~110町石(伽藍大塔~慈尊院)

  慈尊院側(九度山慈尊院から大塔まで180町に180基の町石が立つ。町石は胎蔵界百八十尊を表し、すべて国史跡)

百一町石(国史跡、鎌倉時代中期 文永五年 1268年、総高 165Cm、花崗岩、本尊種子:瞳母嚕)

正面 願主刻銘:「比丘尼慈阿」、左側面:「文永五年 戊辰 閏正月 日」

百二町石(鎌倉中期、本尊の種子:髻設尼) 百三町石(鎌倉中期、本尊の種子:鄥波髻設尼)
正面願主:「沙弥安口」 正面願主:「比丘尼佛念、比丘尼佛阿」、総高 275Cm
総高 188Cm 幅 30.5Cm 地輪長 120Cm 左側面願文:「始亡者十人皆自他法界平等利益」

高野山町石は弘法大師空海が登山者の道しるべとして、弘仁七年(816)に木製の卒塔婆を建立したと伝えられ、鎌倉時代中期の文永二年(1265)に

覚きょう上人が発願して石造卒塔婆に立て替えられた。20年後の弘安8年(1285)に落慶法要が行われている。桃山・江戸・大正時代に改補修したものもある

百四町石〔国史跡、鎌倉時代中期 文永九年 1272年、総高 255Cm、花崗岩、本尊種子:質怛羅(文殊使者)〕

左面 願主刻銘:「左衛門尉藤原景経」、右側面:「文永九秊 五月 日」、頭部大正2年(1913)後補

百五町石〔国史跡、鎌倉時代中期 文永十二年 1275年、花崗岩、総高 275Cm、本尊種子:地慧(文殊使者女)〕
左面:「文永十二年(1275)二月廿一日」、正面願主:「源氏、沙弥定智」
右側面:「當先妣比丘尼幽霊性明第三年之、忌辰所造立也答斯一心慇懃之、丹誠遂彼九品託生之素懐而巳」

町石五輪卒塔婆は正面に五輪塔の梵字を刻み、その下に大きく本尊の種子、町目、願主名や願文を刻んでいる

百六町石(国史跡、鎌倉時代中期 文永十年 1273年、花崗岩、総高 258Cm 幅 32.5Cm、本尊種子:鈎召使者)
左面:「文永拾秊(1273) 癸酉 十一月五日」、正面願主:「比丘尼慈観、沙弥明智」
右面:「右相當亡□比丘尼定智幽霊百箇日之忌晨造、立之但定智往生之白依令奉加早生之分慾我、
名字是為結一佛浄土之勝縁也兼為圓佛、経心両聖霊乃至法界衆生往生極楽矣」

町石は花崗岩製で、一石で彫成され、大きさは 高さ 267Cmで30Cm角(一尺)を標準としている

百七町石(鎌倉中期 文永九年 1272年、花崗岩、総高 230Cm) 二里石(鎌倉時代中期、花崗岩、総高 220Cm 幅 29Cm)
左面:「文永九年九月廿七日」正面願主:「金尉佛子聖勝」 左側面:「為左金吾源高綱、并重綱法師等」
右面願文:「為悲母聖霊佛果圓満」 正面願主:「沙門真願」、右面:「左衛門尉草部久知」

里石は慈尊院側から伽藍大塔方向へ、三十六本毎に各一本、町石と同じ形のものが、計四本建っている

百八町石(鎌倉時代中期、本尊の種子:賢護菩薩) 百九町石(鎌倉中期 文永五年 1268年、本尊種子:施無畏菩薩)
正面願主:「金剛佛子空恵」、総高 230Cm 左面:「駿河守平朝臣義政」、右面:「文永五年 戊辰 閏正月十七日」

 高野山町石五輪卒塔婆、111~120町石(慈尊院側)      町石目次    石仏と石塔-目次!

百十町石(鎌倉時代中期、総高 270Cm 幅 32.5Cm、本尊の種子:破悪趣菩薩)

左面「藤原氏女」、正面:「比丘尼陀佛、沙弥持観」右面「右衛門尉泰宣」

九度山町 慈尊院からの道は「高野山町石道(こうやさんちょういしみち)」と呼ばれ高野山への表参道

                                            (参考文献:「高野山町石の研究」 愛甲昇寛 著、密教文化研究所 他)

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*南海電鉄 極楽橋よりケーブル「高野山駅」下車、南海バス「大門バス停」下車 徒歩。又は南海電鉄「九度山駅」下車、北西へ 徒歩1.5Kmの慈尊院から町石道を歩く

(撮影:平成21年3月26日、平成21年4月24日))