明王院(みょうおういん)阿弥陀種字板碑

 明王院(みょうおういん)(群馬県太田市安養寺町200-1)

   新田義貞の弟 源(脇屋)義助の菩提を弔うために造立された板碑で、病没した南北朝時代 康永元年(1342)の紀年銘がある。

明王院 阿弥陀種子板碑(市指定文化財、南北朝時代前期 康永元年 1342年、緑泥片岩、高さ 119Cm 幅 35Cm 厚さ 3.5Cm)

寺院改修の為か、山門前左手の仮設テントの中に立っていた。身部は上方に阿弥陀種子を、下方は造立趣旨と紀年銘・光明真言を刻む。

板碑 頭部

頭部 山形、下に二段の切込、額部はなく、身部は一重線の輪郭を巻く。

身部上方、蓮座上に阿弥陀種子「キリーク」を刻む 身部、下方の刻銘

身部下方の刻銘は、中央に「康永元年(1342)、壬午六月五日」、左右の升目に光明真言、下方に「前刑部卿、源義助、生年四十二、逝去」と刻む。

梵字光明真言:「オン、ア、ボ、ギャ、ベイ、ロ」「シャ、ナ、マ、カー、ボ、ダラ」 「マ、ニ、ハン、ドマ、ジンバ、ラ」「ハラ、バ、リタ、ヤ、ウーン」

身部 最下方の刻銘

刻銘:「前刑部卿、源義助、生年四十二、逝去」

脇屋(源)義助は、「康永元年(1342)五月十一日」四国の伊予において病没している。享年38歳。

この板碑は、北朝方の年号が使われている為、真偽をめぐる論争があったが、今では本物と認められている。

刻銘:「康永元年、壬午、六月五日」 板碑 背面

本板碑は、脇屋(源)義助の病没後、一月弱 経って造立されたことになる。

 明王院(みょうおういん)千体不動尊供養塔(群馬県太田市安養寺町199-1)

   不動尊をピラミッド型に千体積み上げたもので、諸願成就を祈った供養塔。

千体不動尊供養塔(市指定文化財、江戸時代中期 延享四年 1747年、安山岩(小松石)、高さ 約6m 底辺 約7.2m平方)

二段積みの基壇の上に、不動尊を浮き彫りにした石をピラミッド型に十五段積み上げ、さらにその上に金剛界四仏種字を刻んだ多宝塔を安置する。

供養塔 不動尊を浮き彫りにした石

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明王院(みょうおういん)(真言宗)

新田義貞が元弘三年(1333)鎌倉を攻めたとき、当寺の不動明王が山伏に化身し、

越後方面の新田一族に挙兵を、一夜にして触れ回ったと伝説から「新田触不動」と呼ばれている。

 板碑(いたび)

*東武伊勢崎線「木崎駅」、南西方向に徒歩 約22分。

(撮影:平成28年10月14日)