明恵上人(みょうえしょうにん)紀州遺跡 笠塔婆

  明恵上人が誕生・修行した紀州 有田の地 八ヶ所に、弟子の喜海が嘉禎二年(1236)に木造卒塔婆をたてた。これが古くなり、康永三年(1344)弁迂が勧進し、石造卒塔婆に建替えた。

 神谷後峰(かみたにこうほう)卒都婆(和歌山県有田郡有田川町船坂字聖人793-1)

   師 文覚の対馬配流に始まる一連の混乱を避ける為 、ここ神谷に移住した。ここでは大仏頂法(敬愛・息災・増益の行法)を修している。

明恵上人 紀州遺跡 神谷後峰(かみたにこうほう)卒都婆 (国史跡、南北朝時代前期 康永三年 1344年、砂岩)

宝珠を欠失、塔身の折損部も修理する。塔身正面に、明恵上人の高弟 喜海が嘉禎二年に建立した木造卒塔婆の文面を刻む。

明恵上人 三十二歳の元久元年(1204)四月、糸野(いとの)から ここ神谷に移住した。ここでは大仏頂法(敬愛・息災・増益の行法)を修している。この元久

元年は、二月に師の文覚が対馬に流され、明恵上人を支えた湯浅一族も郡内の地頭職を失うという事態となっている。移住は、その混乱を避ける為である。

宝珠は欠失し、笠は両端で反る。

笠塔婆正面、上方の本尊種子「タラン(金剛幢)」

正面上方、「金剛幢菩薩」 正面下方の刻銘

塔身正面、上方に大きく種子「タラン」、下に「金剛幢菩薩」、下方に「建仁之比、大仏頂法、修行之処」、

「嘉禎二年(1236)、丙申、十一月十九日造立之、比丘喜海謹記」と刻む。

[ 大仏頂法修行の処。嘉禎二年(1236)十一月十九日造立 喜海記]

明恵上人の高弟 喜海が嘉禎二年(1236)に建立した木造卒塔婆の文面がそのまま刻まれている。

塔身正面下方、上段の刻銘

刻銘:建仁之比、大仏頂法、修行之処」

[ 大仏頂法修行の処。]

塔身正面下方、下段の刻銘

刻銘:「嘉禎二年(1236)、丙申、十一月十九日造立之、比丘喜海謹記」

[ 嘉禎二年(1236)十一月十九日造立 喜海記]

笠塔婆の基礎は、なくなっている。

笠塔婆、側面 笠塔婆、正面

明恵上人 紀州遺跡 神谷後峰(かみたにこうほう)卒都婆

「この卒都婆はいつの頃か半折上半分は史跡指定後、昭和十年二月有田市須谷 福勝寺にて発見され昭和四十四年三月大修理を機に接着 復元されたものである。」(現地説明板)

笠塔婆は、背面に「嘉禎年中所立木卒塔婆朽損之間、今勧進一族以石造立依之此結縁、各預上人之引導可令、

成就二世願望者也 康永三年(1344)甲申九月十九日」、側面に「願主 諸人結縁衆」の刻銘がある。

[ 嘉禎年中に立てた木造卒塔婆が古くなり、康永三年(1344)九月十九日、結縁衆により石造卒塔婆に建替えた。]

指定 名       称 制  作  年 所    在    地
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 吉原笠塔婆     康永三年(1344年) 和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字中越179
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 西白上笠塔婆  康永三年(1344年) 和歌山県有田郡湯浅町栖原
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 東白上笠塔婆 康永三年(1344年) 和歌山県有田郡湯浅町栖原
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 筏立笠塔婆 享和二年(1802年) 和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字西原1103
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 糸野笠塔婆     康永三年(1344年) 和歌山県有田郡有田川町糸野字上人谷650-1
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 星尾笠塔婆     康永三年(1344年) 和歌山県有田市星尾
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 神谷後峰笠塔婆   康永三年(1344年) 和歌山県有田郡有田川町船坂字聖人793-1
明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 内崎山笠塔婆  昭和八年(1933年) 和歌山県有田郡有田川町井口22-2

明恵上人 紀州八所遺跡 笠塔婆一覧

明恵上人 紀州 神谷後峰(かみたにこうほう)遺跡

神谷後峰遺跡は山深い所、細い道路のさらに下、ミカン畑の中にある。

明恵上人 紀州遺跡 神谷後峰(かみたにこうほう)遺跡から南方を望む

 明恵(みょうえ)上人 紀州遺跡 糸野卒都婆                    石仏と石塔-目次!

明恵上人 紀州 神谷後峰遺跡 (大仏頂法を修する)

師 文覚の対馬配流に始まる一連の混乱を避ける為 、この地域の古刹 最勝寺の裏山に草庵を建て移住した。

ここでは大仏頂法(敬愛・息災・増益の行法)を修している。

明恵上人 略年表

 笠塔婆(かさとうば)

*JR紀勢線「藤並駅」下車、北東方向へ船坂の集落を抜けて 約6Km。舗装が施されているが、幅の狭い山道が続く。藤並駅の観光案内所で、無料レンタサイクルを借りるのが便利。

(撮影:平成25年12月24日)