徳蔵寺(とくぞうじ)元弘の碑

 徳蔵寺(とくぞうじ)(東京都東村山市諏訪町1-26-3)

  鎌倉幕府滅亡の直前、倒幕の兵を挙げた新田義貞側 将士三名の討死者名や合戦の日・場所等が刻まれた板碑で、 重要文化財に指定されている。

徳蔵寺 元弘の碑(重要文化財、鎌倉時代末期 元弘三年 1333年、緑泥片岩、高さ 105Cm 下幅 46Cm)
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板碑は、上半を欠失する。残存部は、上方に光明真言、その下中央に紀年銘、その両側に銘文を刻む。

光明 真言

「オン、ア、ボ、ギャ、ベイ」、「ロ、シャ、ナ、マ、カー」、「ボ、ダラ、マ、ニ、ハン」、「ドマ、ジンバ、ラ、ハラ、バ」、「リタ、ヤ、ウーン」

この真言で加持した土砂を死体の上にかけると、その加持力により諸々の罪障を除いて極楽浄土に往生できると説かれている。

通常 光明真言は、二行か四行で刻まれているが、ここでは五行で梵字も美しい。

刻銘:「元弘三年(1333)、癸酉、五月十五日、敬白 鎌倉幕府滅亡直前の戦史を実証している板碑として有名。

身部は一重線の輪郭を巻き、根部は薄く突出する。この板碑は、徳蔵寺から北北西に約400m 東村山市と所沢市(埼玉県)の境界近くにあった永春庵

(将軍塚 南側中腹)にあったが、庵が徳蔵寺に移された後、板碑もまた移された。その所在跡は記念碑が建てられ、所沢市の指定史跡になっている。

銘文 上段、(元弘三年の左右、各二行)

銘文:「飽間斎藤三郎藤原盛貞生年廿六、於武州府中五月十五日令討死」、

「同孫七家行廿三 同死 飽間孫三郎、宗長卅五於相州村岡十八日討死」

[ 飽間斎藤三郎藤原盛貞(あきまさいとうさぶろうふじわらのもりさだ)生年二十六、武州府中(ぶしゅうふちゅう)に於いて五月十五日に討死せしむ。

おなじく孫七家行(まごしちいえゆき)二十三同死(どうし)、飽間孫三郎宗長(あきままごさぶろうむねなが)三十五 相州村岡に於いて十八日討死。](館内説明文)

銘文 下段、(五月十五日の左右、各一行)

銘文:「勧進 玖阿弥陀仏(かんじん きゅうあみだぶつ)」、「執筆 遍阿弥陀仏(しっぴつ へんあみだぶつ)

阿号を持つ時宗の僧が、陣僧として戦に加わっており、玖阿弥陀仏が勧進し、遍阿弥陀仏が銘文を書いている。

銘文には元弘三年(1333)五月十五日の分倍河原(ぶばいがわら)の合戦と五月十八日の相州村岡の合戦に於いて新田将士

三名が討死したことが記されている。その事から本板碑は、実際の戦史を実証している板碑として有名で、重文に指定されている。

尚、鎌倉幕府は数日後の元弘三年(1333)五月二十二日に滅亡した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

徳蔵寺(とくぞうじ)板碑館

昭和43年(1968)に完成した近代的な建物で、二階全フロアに板碑が展示されている。

 徳蔵寺 阿弥陀三尊種子板碑 二基(比翼碑)                  石仏と石塔-目次!

徳蔵寺(とくぞうじ)(臨済宗 大徳寺派)

江戸時代初期 元和年間(1615~24) 壁英宗趙(へきえいそうちょう)禅師により開山した。

 板碑(いたび)

*西武新宿線「東村山駅」下車、北方向へ徒歩 約16分。館内に展示されている約170基の板碑を拝観、感動し宝の山に見えた。早速、徳蔵寺板碑が主の「東村山の板碑」(発行、東村山市教育委員会)を購入。ご住職に写真を撮らせて欲しいとお願いした所、ご承諾の返事を頂き撮らせてもらった。館内の板碑群は、整理が行き届いており、ここを拝観するだけで武蔵型板碑の概観を知ることができる。ぜひ、一見をお勧めしたい。(月曜日休館、拝観料 200円)

(撮影:平成25年3月6日)