浦和(うらわ)博物館 勢至図像月待板碑(Ⅰ)

 さいたま市立浦和博物館(埼玉県さいたま市緑区三室2458)

  月待の本尊は月天子、その本地仏は勢至菩薩。本板碑は、勢至菩薩を刻んだ代表的な月待板碑で双式。室町時代中期 文明十七年(1485)の紀年銘がある。

浦和博物館 勢至図像月待板碑 (市指定文化財、室町時代中期 文明十七年 1485年、緑泥片岩、高さ 106Cm 下幅 30Cm)

浦和博物館、一階奥に展示されている。勢至菩薩を本尊とする代表的な図像月待板碑で、左側に立つ板碑と双式。

瓔珞(ようらく)を垂らした天蓋(てんがい)の下、円形頭光を負い蓮座上に立つ。勢至像は、上半を線刻し、下半の衲衣を深く陰刻し変化をつける。

板碑 頭部

頭部山形を損傷、下に二条線、身部の輪郭はない。

身部上端の左右に「日・月」、その間に天蓋を刻む。

身部上方、勢至菩薩(蓮座上で合掌する)。 身部下方の刻銘

主尊の勢至菩薩の左右に、「月待供養」の文字と「帰命月天子」の偈(げ)、下方に紀年銘と交名を刻む。

月待の本尊は勢至菩薩だが、板碑に刻まれるのはほとんどが阿弥陀三尊の図像や種子で、本板碑の様に勢至菩薩が刻まれるのは極めて少ない。

月待は、十六夜・十九夜・二十三夜などの日に月の出を待ちながら飲食をともにし、月を拝む行事で、月天を祝って延命長寿、無事息災を願った。

身部、下方の刻銘

前机の下、中央に「逆修」、左右に「文明十七年(1485)、乙巳、十一月廿三日」、紀年銘の間に

「明仁禅尼、平六 三郎、道圓禅門、正善禅門」、文明の紀年銘の右下に「口口太郎」の名が刻まれている。

月待行事の催される日は、 勢至の有縁日である二十三日(三夜待)が最も多く、とりわけ十一月二十三日(霜月三夜)が最も多く当板碑も十一月二十三日に造立されている。

十一月二十三日(霜月三夜)は、一年で最も昼が短い日(冬至)で、翌日から長くなり続ける。戦前では、天皇が新穀を天神地祇に勧める「新嘗祭(にいなめのまつり)」が行わ

日でもあり、その年の収穫を神に感謝し、翌年の豊作を神に祈るに最もふさわしい日でもあった。それ故、霜月三夜に村の人々が集まり、飲食を共にし延命長寿、無事息災、

来年の豊作を願う月待行事は、農業生産に根ざした現世利益の祭りであり、仏教的な意味は少なかったといえる。(「板碑とその時代」千々和 到 著、平凡社選書116。参照)・..

(帰)命月天子  本地大勢至  為度衆生故  普照四天下

「帰命月天子」の偈(げ)(出典未詳)

偈(げ):(帰)命月天子(きみょうがつてんし)、本地大勢至(ほんじだいせいし)」、「為度衆生故(いどしゅじょうこ)、普照四天下(ふしょうしてんげ)

[ 月天子の本地 大勢至に帰命し奉(たてまつ)る。大勢至は衆生を済度するがための故に、あまねく 四天下を照らす。 ]

刻銘:「月待供養」 刻銘:「文明十七年(1485)、乙巳

浦和博物館 勢至図像月待板碑(双式) (市指定文化財、室町時代中期 文明十七年 1485年)

向って右側が本板碑、左側は同形で同内容。交名の「道圓禅門」が同じで、他の人名が異なる。

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さいたま市立 浦和博物館

昭和34年(1359)4月開館、現館は昭和47年(1972)6月に造られた親しみやすい博物館。

 板碑(いたび)

*JR京浜東北線「北浦和駅東口」から東武バス「市立病院」行きに乗車、終点「市立病院バス停」下車、南側へすぐ。

(撮影:平成25年3月9日)