二ツ宮阿弥陀堂 阿弥陀三尊種子板碑

 二ツ宮阿弥陀堂(ふたつみやあみだどう)(埼玉県さいたま市西区大字二ツ宮379)

  阿弥陀三尊種子を刻んだ板碑で、残る干支と特徴から鎌倉時代後期 永仁五年(1297)の造立と推定されている。

二ツ宮阿弥陀堂 阿弥陀三尊種子板碑(市指定文化財、鎌倉時代後期 永仁五年 1297年、緑泥片岩、高さ 177Cm 下幅 46Cm)

阿弥陀堂墓地北側、覆屋内に立つ。身部は、上方に阿弥陀三尊種子を蓮華座上に、下方に銘文を刻む。銘文は、大部分剥落している。

板碑 頭部

頭部の山形は低く、頂部と右側を欠損する。下に二段の切込、身部は二重線の輪郭を巻く。

身部上方、蓮華座上に阿弥陀三尊の種子を刻む 身部、下方の刻銘

阿弥陀三尊種子は、上方に阿弥陀の種子「キリーク」、向って右下 に剥落するが観音の種子「サ」、左に勢至の種子「サク」を刻む。

三尊とも月輪なしに、蓮華座上に刻まれている。

身部下方の刻銘は、大部分が剥落している。残っているのは中央に「南無阿・・・・・・・、丁酉四月、十、七日」、左側に「皆悉・・・・・・」の文字。

身部、下方の刻銘

紀年銘の干支「丁、酉」「四月十七日」が残っている。

残る「丁・酉」の干支から、嘉禎三年(1237)、永仁五年(1297)、延文二年(1357)、応永二十四年(1417)が考えられるが、

嘉禎三年(1237)は武蔵型板碑の造立初期にあたり、定形化された板碑は造られておらず、応永二十四年(1417)は室町時代前期にあたり板碑

も小型化、刻銘も弱くなり、身部二重線の輪郭を持つ板碑はない。従って、嘉禎三年と応永二十四年は除外できる。延文二年(1357)は南北朝

時代中期にあたり、大型板碑は少なくなり頭部山形はやや高く定形化する。また、身部も一重線の輪郭が多くなり二重線の輪は、非常に少な

なる。以上の特長を踏まえ本板碑を見ると、頭部山形は低く、身部は二重線の輪郭を巻き、種子の薬研彫も雄渾で、残る文字深くしっかり

刻まれており、また蓮華座の形も鎌倉時代後期の特長を備えている。って本板碑は、鎌倉時代後期初の永仁五年(1297)の造立と思われる。

身部、上方の刻銘

中央に「南無阿・・・」、向って左に「皆悉」の文字が残る。

身部、下方の刻銘

上方左右に「丁、酉」、下方中央に「四月」、その右側に「十」、左に「七日」の文字が残っている。

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阿弥陀堂墓地 板碑収容庫

墓地の奥(北側)、覆屋内に安置されている。

 板碑(いたび)

*JR大宮駅西口から西武バス 所沢駅東口行きに乗車、 「二ツ宮新道バス停」下車、すぐ。

(撮影:平成25年3月8日)