高野山町石(ちょういし)五輪卒塔婆

 高野山町石(こうやさんちょういし)(和歌山県伊都郡高野町・かつらぎ町・九度山町)

 九度山町の慈尊院から伽藍大塔まで180町に180基、大塔から奥の院大師廟までの36町に36基の五輪卒塔婆を立て町石とした

61〜70町石(伽藍大塔〜慈尊院)

  慈尊院側(九度山慈尊院から大塔まで180町に180基の町石が立つ。町石は胎蔵界百八十尊を表し、すべて国史跡)

六十一町石(国史跡、鎌倉時代中期、花崗岩、本尊の種子:釈迦牟尼仏)

正面願主:「沙弥慈仁」   右側面:「為比丘尼我真聖霊、乃至法界平等利益」

六十一町石(本尊の種子:釈迦牟尼仏)、六十一町石の左面には、法華経 譬喩品に出る偈(げ)が刻まれている。

左面刻銘:「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子」、「而今此處多諸患難唯我一人能為救護」

偈(げ):「今此三界(こんしさんがい)皆是我有(かいぜがう)其中衆生(ごちゅうしゅじょう)悉是吾子(しつぜごし)

[ 今、この三界(欲界・色界・無色界)はみなこれ我が有するところ、その中の衆生はことごとく我が子なり ]

偈(げ):「而今此處(にこんししょ)多諸患難(たしょげんなん)唯我一人(ゆいがいちにん)能為救護(のういくご)

[ しかも今ここは、諸々の難儀が多い。唯(ただ)、我一人のみよく救護をなす ]

六十二町石(鎌倉中期 文永五年 1268年、種子:一切如来宝) 六十三町石(大正二年 1913年、種子:如来毫相)
正面願主:「弾正少弼平業時」、右側面:「文永五年二月 日」 背面:「大正二年立秋再建 伊豫 藤田」

高野山町石は弘法大師空海が登山者の道しるべとして、弘仁七年(816)に木製の卒塔婆を建立したと伝えられ、鎌倉時代中期の文永二年(1265)に

覚きょう上人が発願して石造卒塔婆に立て替えられた。20年後の弘安8年(1285)に落慶法要が行われている。桃山・江戸・大正時代に改補修したものもある

六十四町石(国史跡、鎌倉時代中期 、花崗岩、本尊の種子:大転輪仏頂)

正面願主:「沙弥覚阿」

町石五輪卒塔婆は正面に五輪塔の梵字を刻み、その下に大きく本尊の種子、町目、願主名や願文を刻んでいる

六十五町石(鎌倉時代中期、本尊種子:光聚仏頂) 六十六町石(鎌倉時代中期、本尊種子:無量音声仏頂)
正面願主:「藤原清泰」 正面願主:「比丘尼如生」

町石は花崗岩製で、鎌倉時代のものは一石で彫成され、大きさは 高さ 267Cmで30Cm角(一尺)を標準としている

六十七町石(国史跡、鎌倉時代中期、花崗岩、本尊種子:如来悲)

正面願主:「比丘尼浄勝」

六十八町石(鎌倉時代中期、本尊の種子:如来愍) 六十九町石(鎌倉時代中期、本尊の種子:如来慈)
正面願主:「藤原女」 正面:「沙弥蓮定」

 高野山町石五輪卒塔婆、71〜80町石(慈尊院側)      町石目次    石仏と石塔-目次!

七十町石(国史跡、大正二年 11913年、花崗岩、本尊種子:如来鑠乞底)

背面:「大正二年立秋再建 伊豫 前谷」

                                            (参考文献:「高野山町石の研究」 愛甲昇寛 著、密教文化研究所 他)

*南海電鉄 極楽橋よりケーブル「高野山駅」下車、南海バス「大門バス停」下車 徒歩。又は南海電鉄「九度山駅」下車、北西へ 徒歩1.5Kmの慈尊院から町石道を歩く

(撮影:平成21年3月26日)