高野山町石(ちょういし)五輪卒塔婆

 高野山町石(こうやさんちょういし)(和歌山県伊都郡高野町・かつらぎ町・九度山町)

 九度山町の慈尊院から伽藍大塔まで180町に180基、大塔から奥の院大師廟までの36町に36基の五輪卒塔婆を立て町石とした

151~161町石(伽藍大塔~慈尊院)

  慈尊院側(九度山慈尊院から大塔まで180町に180基の町石が立つ。町石は胎蔵界百八十尊を表し、すべて国史跡)

百五十一町石(国史跡、鎌倉時代中期、花崗岩、地輪長 180Cm、本尊種子:不空見菩薩)

正面 願主刻銘:「比丘尼了空」

町石五輪卒塔婆は正面に五輪塔の梵字を刻み、その下に大きく本尊の種子、町目、願主名や願文を刻んでいる

百五十二町石(鎌倉中期、本尊の種子:除一切憂寘菩薩) 百五十三 町石(鎌倉時代中期、本尊の種子:宝手菩薩)
正面願主:「丹治宗泰」、地輪長 140Cm 正面幅 32Cm 正面願主:「沙弥道佛」、地輪長 160Cm

百五十四町石(大正二年 1913年、花崗岩、本尊種子:持地菩薩)

背面刻銘:「大正二年立秋再建」、右面:「廣島」

向かって左側の町石は、当初のものが折損し、そのまま残っている。右は、大正二年(1913)に新しく建てられたもの

百五十五町石(鎌倉時代中期、種子:日光菩薩) 百五十六町石(大正二年 1913年、花崗岩)右面:「大阪 鶴田」
正面願主:「沙弥道窓」、地輪長 180Cn 幅32.5Cm 背面:「大正二年立秋再建 福田 海」、左面:「京都嵯峨、駒井、光松」

町石は花崗岩製で、一石で彫成され、大きさは 高さ 267Cmで30Cm角(一尺)を標準としている

百五十七町石(鎌倉時代中期、本尊種子:摩睺羅伽) 百五十七町石の右面(上写真)、左面:「為父母六親也」
正面願主:「沙弥生蓮、壬生氏女」、背面:「僧賢蓮、藤原氏女」 右面:「壬生則定沙弥生佛、真神安則志貴氏女」

高野山町石は弘法大師空海が登山者の道しるべとして、弘仁七年(816)に木製の卒塔婆を建立したと伝えられ、鎌倉時代中期の文永二年(1265)に

覚きょう上人が発願して石造卒塔婆に立て替えられた。20年後の弘安8年(1285)に落慶法要が行われている。桃山・江戸・大正時代に改補修したものもある

百五十八町石(鎌倉中期 文永九年1272年、種子:伽楼羅) 百五十九町石(鎌倉中期 文永九年 1272年、種子:阿修羅)
正面願主:「秋田城介藤原朝臣泰盛」 正面願主:「秋田城介藤原朝臣泰盛」
左面:「従諸感此 忉利天中 四佛修行 一代彰功、 左面:「従諸感此 忉利天中 四佛修行 一代彰功、
法身之所 自業応衆 現當欣求 感応不空」 法身之所 自業応衆 現當欣求 感応不空」
右面:「高野山者令法久住之砌大師入定之地也當彼寺内仁祠、 右面:「高野山者令法久住之砌大師入定之地也當彼寺内仁祠、
之側畔建以石面二基之支提是則今歳之陽仲春之天云 之側畔建以石面二基之支提是則今歳之陽仲春之天云
関東云洛陽或十一日或十五日際交戦之場致夭死之輩、 関東云洛陽或十一日或十五日際交戦之場致夭死之輩、
答此善根冝證菩提干時文永九年晩夏五月仍経銘曰」 答此善根冝證菩提干時文永九年晩夏五月仍経銘曰」

158町石と159町石は、同じ願主で、同文の願文と紀年銘が刻まれている

 高野山町石五輪卒塔婆、161~170町石(慈尊院側)      町石目次    石仏と石塔-目次!

百六十町石(国史跡、鎌倉時代中期、花崗岩、地輪高 180Cm、本尊種子:持国天王)

正面 願主刻銘:「入寺範勇」、右面:「為先師阿闍梨龍遍」

                             (参考文献:「高野山町石の研究」 愛甲昇寛 著、密教文化研究所・「紀伊国金石文集成」巽三郎・愛甲昇寛 著、熊野速玉大社 他)

*南海電鉄「九度山駅」下車、北西へ 徒歩1.5Kmの慈尊院から町石道を歩く

(撮影:平成20年10月7日、平成21年4月24日)