(弘前市史 No:大鰐 24 )
観音堂(かんのんどう)(青森県南津軽郡大鰐町八幡館字八幡館)
開敷華王如来の種子「アー」を主尊とする石塔婆で、紀年銘はないが鎌倉時代後期の造立と思われる。
開敷華王種子石塔婆 (町指定文化財、推定:鎌倉時代後期、石英安山岩、高さ 63Cm 幅 37Cm 厚さ 36Cm)
観音堂入口に三基立つ中央の石塔婆。石面は、上方に開敷華王如来の種子「アー」、下方に大きく願文を刻む。 |
本石塔婆は、八幡館小字水入にあった五輪寺跡から移されたものとされている。水入には、嘉元四年(1306)銘の種子「アク」を刻んだ石塔婆が存在する。
また、本石塔婆群三基のすぐ近くに徳治二年(1307)銘の石塔婆があり、本石塔婆を含め すべて同形式である所から、本石塔婆も同じ頃の作品と思われる。
石塔婆 上方
開敷華王(かいふけおう)如来の種子「アー」を薬研彫する。
石塔婆 下方
刻銘は二行、「逆修志者為、西信現当口」と刻む。
西信の逆修供養として造立された。西信は、五輪寺の住職と推定されている。
(弘前市史 No:大鰐 23 )
観音堂(かんのんどう)(青森県南津軽郡大鰐町八幡館字八幡館)
上記同様、開敷華王如来の種子「アー」を主尊とする石塔婆で、紀年銘はないが鎌倉時代後期の造立と思われる。
開敷華王種子石塔婆 (町指定文化財、推定:鎌倉時代後期、石英安山岩、高さ 65Cm 幅 41Cm 厚さ 25Cm)
石塔婆 上部、開敷華王如来の種子「アー」を刻む。 | 石塔婆 下部、二行の銘文を刻むが内容は不明。 |
本石塔婆も、八幡館小字水入にあった五輪寺跡から移されたものとされている。
(弘前市史では、種子「アク」となっているが、ミスプリントと思われる。)
(弘前市史 No:大鰐 25 )
観音堂(かんのんどう)(青森県南津軽郡大鰐町八幡館字八幡館)
開敷華王如来の種子「アー」を主尊とする石塔婆で、鎌倉時代後期 徳治二年(1307)の紀年銘がある。
開敷華王種子石塔婆(側・背面)(町指定文化財、鎌倉時代後期 徳治二年 1307年、石英安山岩、高さ 77Cm 幅 45Cm 厚さ 41Cm)
この石塔婆のみ、正面が外向きになっていた為、撮り損ねた。三基の石塔婆群より、少し社殿寄りに立っている。
上記の二基同様、本石塔婆も八幡館小字水入にあった五輪寺跡から移されたものとされている。
正面は、種子「アー」の下、「右志者為高慈口父、十三年 徳治二年(1307)九月 日」の刻銘がある。
(弘前市史 No:大鰐 22 )
観音堂(かんのんどう)(青森県南津軽郡大鰐町八幡館字八幡館)
観音堂 一尊種子石塔婆 (町指定文化財、紀年銘なし、石英安山岩、高さ 93Cm 幅 48Cm 厚さ 16Cm)
観音堂入口に三基立つ左端の石塔婆。石面は、上方に種子、下方に願文を刻むが摩耗・風化の為不明。 |
「陸奥古碑集」(中村良之進 著、陸奥史談会事務所 発行)によれば、本石塔婆は「村社八幡宮南境外より発掘」とある。
観音堂 入口に立つ三基の石塔婆
観音堂 (かんのんどう)
*弘南鉄道 大鰐線「石川プール前駅」下車、東方向へ 約1.2Km。
(撮影:平成25年10月14日)