(弘前市史No:弘前41 )
国吉板碑群(くによしいたびぐん)(青森県弘前市国吉字村元)
上方に阿弥陀三尊、下方に法華経 如来神力品に出る偈(げ)を刻む格調の高い石塔婆で、鎌倉時代後期の造立。
阿弥陀三尊種子石塔婆 (市指定文化財、鎌倉時代後期 正和二年 1313年、安山岩、高さ 124Cm 幅 103Cm 厚さ 20Cm)
板碑群、正面三基の右端。大きな自然石を流用、石面上方に阿弥陀三尊種子、下方に法華経 如来神力品に出る偈を含む銘文を刻む。 |
尚尚、石面には輪郭線が巻かれ、三尊種子と銘文の間に郭線が引かれている。
石塔婆 上方
阿弥陀三尊種子を月輪内に刻み、三尊を大月輪で囲む。
三尊種子は、上方に阿弥陀如来の種子「キリーク」、向って右下 に観音菩薩の種子「サ」、左に勢至菩薩の種子「サク」を刻む。
主尊の阿弥陀種子と脇侍の観音・勢至種子の大きさがあまり変わらない。
石塔婆 下方
八行の銘文で、右から四行が法華経 如来神力品に出る偈(げ)、次の三行が願文、最終行は紀年銘を刻む。
刻銘:「於我滅度後、応受持斯経、是人於仏道、決定無有疑、
口口口意趣口、口口口安穏後生、口口等乃至法、界・・口口二口、癸丑(1313)、立口・・、敬白」
刻銘:「口口二口(1313)、癸丑、立口」 | 鎌倉後期 正和二年(1313)の造立で、本石塔婆群で一番古い。 |
干支が「癸丑」で、その上方に「二」の文字が見える。本石塔婆群で紀年銘の読める四基がすべて鎌倉時代後期の正和五年(1316)・
文保元年(1317)・元応三年(1321)・嘉暦四年(1329)であるところから、本石塔婆は同時代の「正和二年(1313)、癸丑」と考えて差支えないと思われる。
「法華経 如来神力品」に出る偈(げ)
偈(げ):「於我滅度後(おがめつどご)、応受持斯経(おうじゅじしきょう)、是人於仏道(ぜにんおぶつどう)、決定無有疑(けつじょうむうぎ)」
[ 我が(釈迦)滅度(命終)の後に於いて、まさにこの経を受持すべし、この人仏道において、決定して疑いあることなし ]
国吉石塔婆群、正面の三基
本 阿弥陀三尊種子石塔婆は、向って右側。
国吉板碑群 現地説明板 配置図
国吉板碑群は、(1)~(12)の12基が市の文化財に指定されている。
本 阿弥陀三尊種子石塔婆は(1)の位置に立つ。
国吉(くによし)板碑群
石塔婆は、岩木川が蛇行する阿弥陀ヶ淵付近の田の中に埋まっていたものを一ヶ所に集めたもので、近郷の小領主関係のものと考えられている。
東目谷地区と呼ばれるこの地域には、規模が小さいが数多くの中世城館跡が残っており、国吉板碑群の東側には古屋敷と呼ばれる中世城館跡があった。
*JR弘前駅前から弘南バス 弘前~大秋・川原線に乗車、「高野バス停」下車、南西方向へ 約800m。「弘前駅観光案内所」で、レンタサイクルを利用するのも便利。
(撮影:平成25年10月14日)