来迎寺跡(らいごうじあと)墓塔群(鹿児島県いちき串木野市大里1197)
市来氏歴代の墓塔群(県文)で、十数基の宝塔が立っている。
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 (県指定史跡、鎌倉時代後期〜室町時代、凝灰岩)
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 (県指定史跡、鎌倉時代後期〜室町時代、凝灰岩)
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 No1
宝塔群の代表的なものの一つで、鎌倉時代後期のものとみられている。相輪の水煙が一部欠けているが完形をとどめる。
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 No1 (県指定史跡、推定:鎌倉時代後期、凝灰岩、高さ 229Cm)
基礎はやや低く、塔身は一段の首部を伴う太鼓型。笠は四隅で強く反り、軒下に垂木型と隅木を刻み出す。相輪は、下から露盤、請花(枡形)、九輪、水煙、竜車、宝珠。
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 No2
宝塔群の代表的なもの一つで、鎌倉時代後期のものと思われる。欠損している相輪は、笠に比して小さく後補とみられている。
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 No2 (県指定史跡、推定:鎌倉時代後期、凝灰岩、笠上まで高さ 161Cm)
基礎は、上端が一段。塔身は一段の首部を伴い、胴はやや短く裾がすぼまっている。笠は四隅で強く反り、軒下に垂木型と隅木を刻み出す。
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 No3
相輪が完存する宝塔で、水煙がこの地方独特の形をしている。鎌倉時代後期のものと思われる。
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 No3 (県指定史跡、推定:鎌倉時代後期、凝灰岩、高さ 228Cm)
基礎は、上端が一段で、塔身は一段の首部を伴い、胴はやや短く裾がすぼまっている。笠は四隅で反り、軒下に垂木型と隅木を刻み出す。
相輪は、下から露盤、請花(枡形)、九輪、水煙、竜車、宝珠。
来迎寺跡(らいごうじあと)阿弥陀種子宝塔
来迎寺跡(らいごうじあと) 阿弥陀種子宝塔 (県指定史跡、推定:鎌倉時代後期、凝灰岩)
塔身に阿弥陀如来に種子「キリーク」が刻まれている。
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 市来氏(いちきし)三代 時家の墓
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 市来氏三代 時家の墓(県指定史跡、南北朝時代、凝灰岩)
市来三代 時家(姓は惟宗)の墓で、時家は建武四年(1337)八月十四日赤崎合戦で戦死した。
塔 身
肩が張った壷形で、一段の首部を作り出す。側面に薄く法名が刻まれている。
塔身の刻銘 | 現地標識 |
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 市来氏(いちきし)四代 氏家の墓
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 市来氏四代 氏家の墓(県指定史跡、南北朝時代、凝灰岩)
南北朝時代 南朝方につき島津氏の拠った木牟礼城 櫛木野城を攻めた。和歌を善くし蹴鞠の芸に勝れたという。(現地標識の説明)
現地標識
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 市来氏(いちきし)五代 忠家の墓
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 市来氏五代 忠家の墓(県指定史跡、凝灰岩)
現地標識(五代 忠家) | 現地 説明板 |
市来氏は、室町時代中期 寛正三年(1462) 七代 久家・忠家親子の時、島津氏によって滅ぼされた。
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔 その他
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔(県指定史跡、推定:鎌倉時代後期〜南北朝時代、凝灰岩)
来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔(県指定史跡) | 来迎寺跡(らいごうじあと)宝塔(県指定史跡) |
来迎寺(らいごうじ)墓塔群 (県指定史跡、鎌倉時代中期〜室町時代、凝灰岩)
*JR鹿児島本線 湯之元駅下車、西北西方向に徒歩 約40分。
(撮影:平成26年5月27日)